はじめのことば
『泉の自治だより』は昭和62年8月10日発行以来43号を経て10周年を迎えました。
編集委員は、土岐商業高等学校定時制卒業生の有志、甲川清治、金津保、白石孝二、尾島秀夫、久下昇(水野孝太郎に交代)の諸氏と私が泉中学校時代の関係から入り、計6名でやってまいりました。
創刊の頃は、泉町連合自治会の補助は少なく、編集委員によって後援者の広告料で始められました。
現在も年4回発行のうち、連合自治会の補助は1回分のみで、3回は編集委員の広告料集めというボランティア活動で10周年を迎えたのです。
勿論、執筆料その他の費用は一切ありません。こんな姿に私も頭が下がり、老躯に鞭打って協力してまいりました。
執筆依頼、編集、校正等もなかなか大仕事です。編集委員は皆それぞれに仕事を持っておりますので連合自治会嘱託の大西布紗子さんが全ての面で協力してくださっているのでここまでやってこれました。
情報公開、意見、要望等 種々の内容をやってきましたが、婦人会の問題に取り組み、その曙光が見えてきたことは大きな成果でした。
創刊時に郷土の歴史を紹介してはの話が出たので郷土史同好会で話し合った内容を中心に「泉の歴史シリーズ」として34回のせて頂きました。
断片的で、その時バッタリの内容でしたが、皆さんに読んで頂き、激励の言葉も賜り、今回10周年記念事業としてまとめて出版致しました。
計画的に書いたものでは無いので、内容のかさなりや前後撞着のものも有りますが、大体の泉町の歴史の全貌が解るようです。
これにより、郷土の歴史を知り、愛郷心のよすがにして頂ければ幸甚と存じます。
(平成10(1998)年4月1日 田中鈴夫)
1.郷土のうつりかわり(昭和62年9月掲載)
我が郷土が「泉」と呼ばれるようになったのは、明治22年(約100年前)の市町村制実施の時からである。これ以前は久尻村、大富村、定林寺村でした。(河合は昭和29年4月に、明世村より分離して泉町に合併した。)
久尻村の名の由来は旧土岐郡の郡の尻から来ていると言われる。即ち、久尻川は土岐郡の最下流(現在の多治見市東栄町[旧名欠梁土合]及び高田地区は久尻の一小字であったが、昭和9年分離して多治見町に合併する)であったので、郡尻から久尻に名が転化したと考えられる。
大富村の名の由来は定かでないが「源国房は天喜5年2月(約930年前)大富の里に移り住んだ」と土岐市史にあるところからみると、古くから称されていたと考えられる。多分、泉盆地の中央に位置し、稔り豊かな広い田畑を眺めてこの名前が生まれたのだろう。

定林寺は美濃守護 土岐頼貞の創建による禅刹定林寺の寺名から転化したもの。その定林寺は武田勝頼の重臣
秋山伯耆守信友によって焼かれ(約410年前)今はその一部を残すのみである。
河合は町村合併促進法により瑞浪市が発足する時、明世村より分離して泉町に入ったがその名は、日吉川、肥田川が土岐川に合流するところから河合の名ができたのではないか。
「泉」の名は、当時は土岐津町が土岐郡の中心であったが、その昔は乙塚等の古墳が示すように、土岐地域の始まり(源泉)はこの地であったと考えられて、「泉」の名がつけられたのではなかろうか。
当初は駅名が土岐津であったので、長い間下積みにせられ、泉町の場所を説明するのに苦労してきた。土岐市になって駅名も「土岐市駅」に改められ、やっと日の目をみるに至った。今や、泉町の名の如く発展のあと著しく、名実共に、土岐市の玄関 且つ、中心になるに至った。
泉の名は当時、土岐郡長 水谷弓夫氏により名付けられたと言われていたが、その後の平成元年「ふるさと泉」編集の際、水谷氏は明治26年に土岐郡長に就任しておられることが解り、原文は間違いですから訂正します。遅れていた明治30年発足の瑞浪市、明世村の名は水谷氏の命名によるものである。
2.河岸段丘と土岐川の南移(昭和62年11月掲載)
泉町の地質には、デスモスチルスの化石等を包蔵する、頁岩(けつがん)凝灰岩(ぎょうかいがん)砂岩等の俗称「さば土」と言われる堆積岩(たいせきがん、水成岩)花崗岩(かこうがん)の風化したものが沼等に堆積し出来上がった陶土層、そして植物の埋没等によって出来た亜炭層等がある。
次の時代は、土岐川の南への移動と河岸段丘が考えられる。定林寺の土居町付近、延命寺泉小学校台地、泉中学校の大徳原台地、久尻の大坪町から日の出町にかけての台地、昔は一連のものであり、その下を土岐川が流れていたのではなかろうか。
それが長い間に、北部の土岐高原からの流水により台地が分断され、且つ、流し出された土砂により、土岐川は南へ南へとおされていった。そして分断された台地が、現在前記の如く河岸段丘として残っている。今、向かいの土岐津中学校付近の台地から眺めてみると、その姿がはっきりとうかがわれる。
その後、土岐川は場所によっては沼地を各所に残して、次第に南に移り、土砂の堆積を重ねていった。現在の土岐市駅の北側は長い間ひどい沼地であったが、今は埋められて昔の跡をとどめない。又、駅前付近は当時の土岐津駅が出来る時、沼地が埋め立てられて作られた為、水道の設備される以前は、井戸水がそぶ水のため、ろ過しなければ飲用できなかった。
人間が住みついて生活を始め、地域意識の出来た頃から南へ移っていたようだ。その証拠が土岐市民病院(現、セラトピア土岐)付近に残っている。
当時、土岐川はセラトピア土岐の北側を流れており、その南側がセラトピア土岐付近であり、高山村、大富村の境界として決められていた。それが又、南へと移って現在地になった為、高山の土岐津橋の上から、セラトピア土岐の下まで、土岐津町高山の土地として残っている。
尚、大富の主税町の南部地域は「河原」と言い、その土地が大富白山神社の社有地となっていているのは、その為ではなかろうか。
ともかく、土岐川の南への移動により、狭かった泉町の平地が広くなり、土岐津町を狭めて、肥沃な泉盆地が出来あがった。
3.原始時代 (昭和63年3月掲載)
人類の夜明けとも言うべき原始時代をながめてみると、先ず石器時代が長く続いている。その後半の新石器時代には石器と共に、土器を造り始め、併行していわゆる縄文式土器時代に入る。その時代の土岐市に於ける遺物発見場所の大半は、泉町の北辺台地に点在している。即ち、
●久尻
仲島(長養寺裏)
丸石(緑ヶ丘団地)
五斗蒔、水晶山(泉ヶ丘団地入口)
隠居山(泉西小学校東)
久尻大徳原(泉中学校裏付近)
●定林寺
東平、園戸(定林寺湖付近)
岩坂(東町山すそ)
●河合
鍋割(土岐北高登り口付近)
根の上(土岐北高付近)賎洞。
等で、石斧(せきふ)、石錘(おもり)、石鏃(せきぞく、矢じり)、石さじ、削器(皮むき)石錐(いしきり)等が出土した。
●註、縄文式文化。
日本の新石器時代文化を普通縄文式文化とよんでいる。縄文式という名称は当時の遺跡から発見される土器に縄目のついたものが多いので、縄文式土器と名付けられたことに由来する。その遺跡の発見は1万ヶ所を越し、北は北海道から、南は沖縄に及ぶが、西日本には比較的少なく、東日本に圧倒的に多いことが特徴的である。(日本百科大事典より)
次に、新石器時代も序々に銅鉄器時代にうつり、土器も縄文式から弥生式に移っていった。弥生式土器は土岐市内では数ヶ所発見され、泉町は隠居山付近のみである。住居跡は土岐市内にはおぼしき所もあるが未だどこにも発見されていない。
●註、弥生式文化。
弥生という名称は、東京都文京区弥生町で、明治17年3月発見された赤褐色の素焼きの壺に端を発している。発見当時は、この土器はたんに石器時代の壺としてとり扱われたが、日本の考古学の発達にともなって縄文式土器とは異なることが解り、このような一群の土器を「弥生町出土の土器」と称するようになり、やがてこの特徴を備えた土器を文化の名称とした。(日本百科大事典より)
かくの如き文化の発達により、原始時代は次第に古墳時代に入っていった。
4.ペトログラフ(岩刻模様)(平成8年12月掲載)
泉町が歴史に登場するのは、西暦76年(景行4年)からで、日本書紀、古事記に可児郡 泳宮(くくりのみや)に住んでいた八坂入彦命の姫が景行天皇の妃となったと記されている。この姫の妹が乙塚古墳に葬られた主で、泉の三輪氏に嫁いだとされている。当時、この地域に三輪を名乗る豪族がかなりの勢力を持って統治していたと思われる。
しかし、これより以前のことは今のところ資料が無く不明であるが、地域内から石器や石鏃、土器などが出土することから、かなり早い時期から人々が住みついていたことが解る。このたび、それを裏付けるような資料が発見された。それがペトログラフ(岩に刻まれた絵文字)である。
大昔の人々は、自然の偉大な力に対して畏敬の念を持ち、それを「神」として敬い、恐れた。その「神」との接点として巨大な岩、高所にそびえ立つ巨岩を選び、その頂点に絵模様を刻み、自然の恩恵を「神」に願い、豊饒を祈った。
今回発見されたペトログラフは、イルカ絵、太陽、人型、雨乞い、魚、豊饒祈願を表すしるし、星座を表現したと思われる盃状穴、人面岩などである。

これらのペトログラフについて吉田信啓日本ペトログラフ協会副会長は「これらは少なくとも今から4500年から5500年前に彫られたもの」と推測された。これは諸外国、他地域に存在する同種のペトログラフとの比較考証による数値であるので、信頼性は高いと考えられる。この数値は今後の発見、調査研究によっては1万年前にも逆上る可能性も創造される。
さて、今回河合地区の大洞川、定林寺地区の定林寺川を中心に発見されたペトログラフの特徴は、①彫りが深いこと ②表現が的確で、芸術的感覚に優れていること ③物語性を持つと思われる作品があること などが挙げられる。
このことから、泉町には高度な技術と文化を持った人達が、強力な統率者のもとで生活していた可能性を強く感じる。
当時の人々がどのような生活をし、何を考え、何を願い、神に祈ったのかを想像することは、限りない夢とロマンの世界へと誘ってくれる。
しかし、このような古代人が残した証しも、最近の乱開発によって次々と破壊され、やがては消えてゆく運命にある。
泉町の皆さん、この先人の残した貴重な遺産の保護と発見にご協力ください。
5.古墳時代 (昭和63年8月掲載)
古墳については土岐市史には次の如く記されている。
[大 字] [小 字] [数] [備 考]
久 尻 丸 石 1 不確認
々 中 島 1 破壊
々 勝 負 1 乙塚(国指定)
々 段尻巻 2 (県指定)
々 葛 洞 1 破壊
々 上ヶ峰 9 5は横穴式 1半壊3全壊
定林寺 原 1 破壊
々 炭 焼 2 (県指定)
々 段 1 破壊
々 休 石 3 1破壊
大 富 西 山 5
々 西 洞 1 破壊
々 宗源洞 1 破壊
々 北 山 2 1破壊
々 東 山 2 不確認
々 中 山 1
々 三ノ輪 1 破壊
河 合 馬 平 5 破壊
泉町は土岐市は勿論のこと この地域では古墳の最も多い所である。これは何を物語っているのであろうか。それは古墳時代最も栄えたことを示している。そして、国、県、指定の名だたる古墳をもっている。
国指定の乙塚は乙姫の墓と伝えられている。
この系図で解るように、八坂入姫命は第10代崇神(すじん)天皇の孫であるが、日本書紀によれば、景行天皇行幸の折、ぜひ弟姫を妃にと言われたが、これを姉にゆずった事が記されている。それから考えてみてもみめうるわしき姫であったことだろう。
又、泉小学校の校庭整地のため、明治43年に壊された三輪古墳は、乙塚古墳にも優る大きなもので、乙姫の夫君にあたるとも想像される三輪氏の墓とも言われている。男尊女卑の時代に乙塚以上の墳墓が造られたことがうかがわれる。今それをしのぶ字語はどこにも見当たらない。
今回、泉町誌を編集するにあたって、執筆者グループで、数日にわたって、古老の案内をうけて実地踏査を行った。その結果前記土岐市史に記載されて不明のもの、新しく発見されたものもあった。それにしても殆んどが破壊されて放置されたままのため、素人では古墳であることが解らないものが多かった。
国指定の乙塚古墳、県指定の段尻巻古墳、炭焼古墳の外、久尻上ヶ峰の愛宕山古墳、大富中山の中根古墳、北山にある北山古墳、定林寺の休石古墳等は一部は破壊されているが機会をみつけて是非見て頂きたい。
かくの如く、泉町は文化発祥の地といっても過言では無く、我々は大いなる誇りを持つと共に、是非この尊い文化遺産を大切に保存出来ないかと、実地踏査しながらみんなで話し合った。
前記不確認及びそれ以外の古墳をご存知の方は泉町誌に記したいと思いますのでご連絡下さい。
6.黎 明 (平成9年6月掲載)
泉町の古墳は、土岐市史によれば42基有り土岐市の他地域に比し非常に多い。しかし、今は10数基を残すのみで殆ど亡くなってしまった。

この古墳の中で特別に大きかったのが、乙塚古墳と三輪古墳であった。乙塚は国の指定文化財として既存されている。三輪古墳は泉小学校の校庭の処に有り、明治末期泉小学校建築の際に壊され、其の後、巨岩と築山のみが残されていたが今はそれも無い。乙塚は第10代
崇神天皇の孫娘にあたる乙姫の古墳であると伝えられる。
何故、こんな高貴な方が
久々利の宮(可児市)から山坂越えて来られたのか、それはこの泉町に久々利の宮に匹敵する文化があり、豪族がいたと考えられる。その豪族の三輪氏に嫁いで来られたのではないか、そして、その墳墓がこの地方には珍しい大きな古墳として残されたであろう。
それでは何故、この地に乙姫を迎える程の豪族が住んでいたのか。それが今回泉町の各地で発見されたペトログラフ(岩刻模様)により解明されたような気がする。その詳細は前回報告された通りである。ペトログラフは約四・五千年前の縄文式土器時代の遺物と言われている。この泉の地にはもうこの時代から、かくも立派な文化遺産を残した人達が住んでおり、これが三輪氏の豪族につながったのではなかろうか。
続いて、文化の発展として生まれて来たのが高田勅旨田(てしでん、ちょくしでん)であった。平安時代から鎌倉時代の末期にかけて何故、僻すうの地に朝廷直轄の領地が土岐市から瑞浪市にかけて置かれたのかが解るような気がする。
其の後、土岐氏がここに住し、美濃の守護土岐頼貞により開花し、高田城(大富城)高田明神(白山神社)定林寺(寺院)として残り「美濃の鎌倉」とまで言われるようになった。
其の後、河合城、久尻城も俎上にのぼって来ている。又「大富村略記」により高田城(大富城)が地名からその規模の大きさも解って来た。
次に、加藤景光によって始められ、其の子、筑後守景延(陶祖)によって元屋敷窯で焼かれた久尻焼が、茶人古田織部によって古陶「織部焼」として脚光を浴びてきた。
以上の歴史の歩みから考え、位置と相俟って首都機能移転の最大候補地にあがってきたのではなかろうか。
我々は他地域に比し、文化遺跡の多い我が郷土 泉町の歴史の解明を今後とも進めていきたい。
7.泉の発展 (昭和63年10月掲載)
泉村合併前の各村(河合村、定林寺村、大富村、久尻村)の名が始めて歴史上に出て来るのは、高田勅旨田からのようである。
今から約700年前、伏見天皇の後宮、昭慶門院 喜子内親王に高田勅旨田(高田郷)外2箇所をたまわったことに始まる。高田勅旨田とは現在の土岐津町高山、泉町の付近をさしている。
その後、後醍醐天皇の第2皇子世良親王を養子とせられ、これを伝えられた。親王死後、室町准后がご遺領を管理しておられたが、その後、世良親王のご冥福を祈る為、当時、虎渓山永保寺を開かれた無窓国師がお務めしていた京都臨川寺の三会院(さんねいん)に寄進せられた。
これより前、美濃の豪族 土岐頼貞は高田勅旨田の地頭職になっていた。頼貞の死後、その娘が職をつぎ、川井村の年貢をおさえたので、三会院から足利幕府に訴え出たことが古文書で明らかになっている。
この高田勅旨田はその後、だんだん開けて来て、上河井村、下川井村(定林寺村)大富窯郷、上郷、下郷、郡尻窯郷、本郷等の部落名がおこり、ひとり昔ながらの高田勅旨田の名は、郡尻村の西端の山中(現、多治見市高田町)に名残りをとどめる有り様となった。又、高田郷の中心でもあった高田明神は、大富白山神社として残り、地頭 土岐頼貞の居城高田城は、大富館として其の名残りをとどめている。
なお、頼貞の娘婿(むこ)の土居遠江守貞秀は高田勅旨田の代官として、定林寺村字土居の地に居住した。その屋敷跡には長い濠(ほり)や土居が明治中期頃まで残されていたという。その土塀の土は、明治35年の国鉄中央線開通時に線路構築に使われたと伝えられている。
江戸時代にはどんどん発達して、河合村、定林寺村、大富村、久尻村の4ヶ村となり、明治の始めの米の生産状況は次の通りであった。
河合村 481.2石
定林寺村 335.3石
大富村 875.8石
久尻村 604.9石
(1石(こく)は 米150Kg)
(このうち久尻村は次の四郷からなっていた)
(戸数) (人口)
本郷 65 283
窯郷 76 285
欠梁 18 93
高田 77 342
計 236 1047
(欠梁、高田の両地区は昭和9年分離して、
多治見市へ合併)
かくの如く高田勅旨田に始まった我が郷土は幾多の変遷を経て明治に至った。
8.各区の変遷 (平成7年12月掲載)
明治14年(114年前)に
三好學氏(恵那郡岩村町出身、後に東京大学教授となる、有名な植物学者)によって編纂された土岐郡地史がある。
それによれば、現在の泉町は当時は久尻村、大富村、定林寺村、河合村と独立した村であった。
久尻村は村内を郷、高田、欠梁、土合、竃の5区に分かつとある。(高田地区は昭和9年分離して多治見町に編入された)人口1,150人余(現在、人口10,844人、高田地区を除いた人口を800人とすると、約13倍)
戸数220余、小学校は2校あり、一つは績新学校、一つは養章学校(高田)と称す。産物は陶磁器にして、近時、亦砥石を出す。
大富村は上組、下組、竃組の3区に分かち、村の西北を久尻と入会とする。人口540人余、(現在、人口6,865人、約13倍)戸数114、小学校あり大富学校と称す。本村は古昔土岐頼貞の家とせし処なりという。
定林寺村は人口450人余(現在、人口1,999人、約4倍)戸数100土岐頼貞の菩提寺は古昔本村にあり、村名、亦此に起こるという。産物は陶器。
河合村は人口500余(現在、人口1,015人、約2倍)戸数110余、土岐川は東から南を流れ、日吉川北より来りて此に合す。これ村名の起こるところという。此辺両岸の岩石屹立して風光頗る佳。小学校を専精学校という。
その後、久尻村、大富村、定林寺村によって泉村が出来たのは明治22年(106年前)であり、泉町になったのは、大正4年(80年前)である。河合村の合併は瑞浪市の出来た時で、明世村から分離した昭和29年(41年前)のことである。
土岐市内の各所に八幡神社が祀られている。中でも妻木町の八幡神社は妻木氏の守護神として、昔から社格も高く、今も流鏑馬の行事が毎年行われる等有名である。今回「ふるさと泉」の編集をするにあたって、河合区の八幡神社が妻木町の八幡神社に勝るとも劣らぬ由緒があることを知ることができた。高田勅旨田時代から、土岐氏の全盛時代にかけて、現在の河合区、定林寺区一帯は川井村、(河井村、河合村)と言われ、頼貞の娘の年貢問題でも推察されるように、地味肥沃な中心的地帯であった。
土岐氏中興の英主と言われる土岐頼貞で、土岐氏の菩提寺として、全国8番目ともいわれた瑞雲山定林寺を下河合村に創建した。
頼貞の総領頼遠は武勇の誉れ高く、足利尊氏の弟直義の部下として、各所を転戦して数々の武勲をたてていた。
頼遠はこれらをすべて神明の加護によるものと考え、京都男山八幡宮に誓願していたので、頼遠はこれがお礼の意味をこめて、土岐氏の居城大富館の丑寅の方角に当たる河合の小山をえらび、男山八幡宮のご神体を迎え八幡神社を創建したと伝えられている。
この八幡神社の地は、川合村の産土神として、京都の伏見より迎えられたといわれる稲荷神社が祀られていたが、頼遠はこれを他にうつし、土岐氏繁栄を願い土岐氏の武勲守護神を、鬼門封じにもと考えて、この地に祀ったようである。祭神は品陀(誉田)別名(ホンダワケノミコト)で後の第15代応神天皇である。稲荷神社は現在八幡神社の境内にお末社として祀つられている。今河合の高台に立って泉の盆地を俯瞰して見るとき、1番広い大富の土岐川に望む高台の伍所の地に大富の館を造り、土岐川の向かいには浅野館、北東には菩提寺瑞雲山定林寺、そして守護神八幡神社を配した。約600年前の戦国武将の雄図が偲ばれる。
日頃我々が使い慣れている定林寺の地名には、素晴らしい由緒来歴のあることを此の際しっかりと見つめ直して見たい。
そもそも定林寺の地名は昔は河合村の名も無き一隅であったが、その後発達して下河合村となった。この地に土岐氏中興の祖と言われる土岐頼貞がお寺を創建して父光定の33回忌の法要を営んだことに始まる。
定林寺の地名は、この地が中国江寧府鐘山にある定林寺の地勢によく似ている所から名ずけられたと言われ、その定林寺は禅宗の祖師といわれるあの有名な「達磨大師」のゆかりの名刹である。
また韓国の百済の古都扶余にも定林寺があった等、誠に由緒ある寺名といわなければならない。そして全国第8位にランクされた東西南北各々800mにわたる壮大な寺が約20年間にわたって造られ、その後約270年間名僧、高僧によって守られてきたのである。しかしながら名刹定林寺も、戦国の代の永禄元年、甲斐の武田信玄の家臣秋山伯耆守が東美濃に侵入し、その部将仁木藤九郎なる者によって焼かれ、ついに幕をとじたのである。現在は寺院の遺跡、屋根瓦、墓石、石像物の当時を物語るよすがは何物も無く、わずかにときたま掘り出される黒ずんだ土台とおぼしき石と地名にのみそれを知ることができる。定林寺は頼貞が、深く禅宗に帰依し時の執権北條時宗が中国から招いた無学祖元に頼んで造ったものである。
その祖元は自分の開いた鎌倉の円覚寺に模して造ったとも考えられるので、その円覚寺境内に現在残されている地名を織り込み、定林寺の創造図を考えて見た。(紙面の都合で割愛、ふるさと泉に掲載)ただ当時から江戸時代まで使われ歴史の跡を残している小字名が、地租改正のため明治5年、政府の命により、中字名に書き改められたため、今日わからないのが残念である。(定林寺に残されている古文書のどこにも見当たらない)これがわかればもっと当時の定林寺の姿がはっきりするのではないだろうか。
かく考えるとき、定林寺の寺名が地名となり、その輝かしい歴史と文化が脈々と残されていることを、もう一度考え直してみたいものである。
定林寺の幾多の町の中に土居町がある。如何にも古めかしい町名で、中央線をはさんで南北にまたがっている。ここに今から650年程前に土岐氏の一族土居氏が住み、大きな土塁(土居)があった。
代官屋敷が建っていて、その建物が土居屋敷と称され、それが地名となったと考えられている。
(現在の西濃運輸会社の付近ではないだろうか)
その屋敷にあった土塁は壊れていたが、明治時代まで残っており、明治34年中央線敷設にあたって、土砂がないためこれを壊して埋めたといわれる。その土塁は線路の西北から一直線に東に築かれていて、土塁の周囲には幅6尺(1.8m)長さ百余間(200m)の壕りがあり、現在の線路は壕で明治時代までは、農業用水の通水路として使われていたようである。土居氏の系図の中に土居の名が出てくるのは、貞秀からである。
土居貞秀は美濃初代守護土岐頼貞の甥の子に当たり、久尻四郎貞高とは従兄弟の関係に当たる。土居代官所が何故土居町にあったのかは確たる記録はないので想像にすぎないが、現在も土居町の北に大門と呼ばれる地名があり、定林寺創建当時の名残として語られているところから、定林寺の入り口であったであろう。その東に市場と言われる地名も残っている。またその一角には1m程の高さの塚があり、この塚に金神という文字が刻みこまれている小さな石碑が祀られていることが近年確認された。
これらの事から考えるとき、大勢の人々が定林寺の参拝に訪れ、五穀豊饒、家内安全、部落の繁栄を祈り、その人々により門前市が出来て市場となり商売繁盛、を願って金神様を祀ったのではないだろうか。
壮大な定林寺の警護、次々と訪れる参拝者の安全、付近一帯の高田勅旨田から収納した生産米を管理することも含めて、定林寺大門に代官所がおかれ、その長に貞秀がなり、ここに居を構えていたのが、今日の土居屋敷の跡ではなかろうか。
その子は他に移り、その7代の孫通氏の時土居氏と改め、その一族にあの有名な土居利勝がいる。利勝は常陸古河城主となり、後に3代将軍家光に仕え、知略をもった第1の補佐と仰がれ最初の大老となった。
現在中央線、国道19号線の走る繁華な土居町に立ち、懐古すると感無量である。
15.大富館跡 (平成元年3月掲載)

明治の始頃、大富村3番地(現在の東上町、西上町地域)に総代をやっていた今井柳右衛門という人があった。今井氏は村の諸役をつとめながら「大富村略記」を書き残された。往時を偲ぶ誠に貴重な資料である。
その中に「字名書替え事」の項があり、明治5年政府の命令により、小字が中字に書きかえられており、それが旧土地台帳の地名になっている。
その書替以前、即ち江戸時代の小字名に歴史のあとが紛々と残されている。それにより大富館跡をしのぶと、右のような絵になる。
即ち、重臣大島雲太郎の屋敷跡、堀田は堀りめぐらされていた堀りの跡、そこに竜が住んでいたと伝えられ、今若草竜神の碑がたてられている。屋免田は家屋を作る大工の住んでいた所で、税金が免除されていたので屋免田、御門、先祖の名も残っている。
土岐川べりには、西には薬師前、堂の前の地名があり、東には大日(如来)が祭られていて、御門の東西の壮大さがしのばれる。
東北には延命寺の前身ともいうべき神宮寺が横枕にあった。これが西北に移り
横枕山延命寺となった。
なお土岐川べりの道は、東へ通じて曹源川(定林寺川)を渡る場所に、当時としては大きな橋をかけたので、大橋の地名が残っている。そして下河合村(定林寺村)に行くと、定林寺の門前町とも言うべき場所に市場が開かれていたので、その地名がある。
かくの如く今から約700年前に出来た大富館が、今に残る地名によりその豪華さを偲ばせている。土岐頼遠の大富館は、その後大富城として、戦国の世まで攻防のとりでとなっていったようである。
16.白山神社 (平成2年12月掲載)

大富の地名はどこからつけられたものであろうか。其の昔、泉町、明世町一帯は高田
勅旨田と呼ばれ、朝廷直轄の領地であった。その中で南北の面積も広く肥沃な田の地域であったところから大富と名付けられ、高田
勅旨田の中心的位置であった。そして、この高田郷一帯の守護神として祀られたのが高田明神であったと考えられる。
高田
勅旨田は、のちに美濃国の守護(現在の知事のような職)として、おもむいて来た土岐氏の領地となり、中興の英主といわれた土岐頼貞は、大富城を築いて居をもうけ、高田明神を守護神とし、菩提寺として定林寺を建立した。
高田明神をお祀りした大富の高台三輪の地は、東に大きな三輪古墳(現泉小学校)をもち、西には伊野川(後に仲森の池)を流し一大偉容であったであろう。時うつり世かわりそこに白山神社が祀られるようになった。その歴史を物語るが如くに、白山神社には国指定文化財のはなの木及びひとつばたごが古を物語りげに
屹然として立っている(市内の神社で指定天然記念物があるのはここのみである。)
白山神社の棟札によれば貞享3年(1686)の再建とあるところからみれば高田明神から白山神社にかわりつづいて来たものと考えられる。そして神仏混合で玉林山竜泉寺という神宮寺が境内にあって棟札らによれば山伏によって守られて来たようである。
明治の始めの廃仏毀釈、神仏分離令により、玉林山竜泉寺は廃止され、代わりに嘉永7年に伏見稲荷より迎えられて延命寺に祀られていた土岐一稲荷を、又下郷に祀られていた
日神子神社を共に幾多の変遷を経て境内に迎え祀られている。市指定文化財として工芸の大狛犬1対がある。(指定文化財があるのも白山神社のみである)
現在のお宮は、昭和5年に新築され、平成2年に60年振りに屋根替えが行われた。
なお、結婚式場の神泉殿は昭和37年に建設され、一時は繁を極めたが、今は他に奪われ、各種会合に使われ区民会館的な存在である。
かく考えるとき、土岐市最古の神社を物語るが如くに国指定の天然記念物及び市指定の工芸彫刻があるのもむべあるかなとおもわれる。
17.仲 森 池 (平成2年7月掲載)
仲森の池は、3カ年計画で、3億2100万円の巨費を投じて、特定保水池として昨年(平成元年度)完成を見、併せて仲森公園として整備された。その竣工記念碑が大富区によって建設され、その裏面に岩村藩の命により万治元年(4代将軍家綱の時代、江戸時代の始め)着工、同年3年竣工と記されている。
この仲森の地名は、明治初年に作成された大富略記にも記されていることから考えて、その名は古い。
昔伊野川は現在の仲森の池のところを流れていたと考えられる。仲森の池の北一帯の田は地下がすべて砂礫であり、又南の島田町付近には、大正末期まで、川の跡と思われるくぼみがあり、そこに溝が流れて神栄町で伊野川に水を落としていた。この伊野川を川がえして池を造ったのであろう。そして東は三輪(白山神社から泉小学校一帯)で、西は西洞(旧日神子神社跡地)で、共に古墳のあった丘であり、樹木が繁茂している森であった。その谷間に造られ、森の間であることから仲森の池と呼んだのであろう。現在の伊野川は、この池を造るため、西洞の丘を掘削して流された。

当時の仲森の池の堤は、ささやかなものであったが300有余年の間に池に堆積する砂土を出して次々と堤の上に積んで、現在のような立派な堤防になった。現在残されている明治以降の大富区の記録にも砂出しが各所に記されている。慰霊塔の丘もその1つである。
この築堤にからむ悲しい伝説が残されている。当時は大きな工事をする時、成功を祈願して「人柱」といって生娘を御供えする風習があった。誰もが、自分の娘だけは人柱にしたくないと願っていた。庄屋は悩んだあげく身寄りのない娘を選んだ。何故か人柱をたてた所から切れて失敗した。次の娘も同じことだった。この失敗にこり、娘でも身分高い人の娘でなければ駄目だという村人の声に、庄屋はとうとう自分の1人娘を人柱にしなければならなかった。今度は堤は切れなかった。村のためとは言え、あまりの悲しさについに庄屋は気がふれてしまったという。池の東南角に建つ「百万編供養塔」「観音像」「供養塚」は、池の安全を願い、娘の霊を慰めるが如く当時を偲ばせている。
この仲森の池は、大正の終わりから昭和の始めにかけて、遊覧池として、ボートが浮かび、伝馬船がこがれ、池畔には数軒の店がだされ其所に祀られてあった土岐一稲荷と共に東濃新名所となったこともあった。すっかり近代化されたこの仲森の池に、3百数10年の歴史と、悲しい伝説を秘めた碑が、そのかげを静かに水になげかけている。
18.白山神社の鳥居(平成7年6月掲載)
4月11日の朝日新聞の第1面記事に、白山神社の国の天然記念物「ハナノキ」が大きく紹介された。樹齢約1000年と思われる老木が、岐阜大学教授によって蘇生手術が行われたとの記事であった。

白山神社にはこの外、国の天然記念物「なんじゃもんじゃ」と言われる「ひとつばたご」や、大狛犬1対が共に土岐市の文化財に指定されている。又泉町付近一帯は、鎌倉時代朝廷直轄地の高田
勅旨田と言われ、当時の高田明神は白山神社とも考えられ、人柱によって出来たと言われる「仲森の池」、「ひとつばたご」と狐との関係の「孝助嫁」等の伝説もある。
ここにもう1つ想像される話を紹介したい。白山神社では数年前より、毎年大富厄年の人達の寄付により、境内の外まわりに玉垣が造られている。その工事の際、参道入口の大鳥居の近くから、古い墓碑が掘り出された。「松雲東秀庵主」と「○峰盈泉信士」の戒名が記され、亨保5年8月9日となっている。大鳥居の建立年月日は、亨保5年11月吉日で、3ヶ月後である。
当時(明治初年まで)は神仏混合の時代で、現在の神泉殿の前の広場付近には玉林山竜泉寺があり、白山神社と共に祀られていた。亨保の頃、白山神社と竜泉寺の守りをしていたのがこの庵主(尼僧)と信士(作男)ではなかったろうか。
上組総代今井柳右衛門による明治初年作の大富略記によれば、明治初年の大富村戸数(下組50戸余、上組27戸、窯組50戸余)は約130戸である。それより約150年前の亨保の時代の戸数は100戸以下ではなかったろうか。
当時この尼僧と作男が中心となって、数年間かかって百戸以下の水呑百姓の村人たちに働きかけ、その努力によりこの大鳥居ができたのである。機械力のない当時は資材の運搬、建立の努力等は並たいていことではなかったろう。その完成を目前にして(8月)亡くなり、大鳥居は(11月)完成した。村人はその死をいたみ、努力をたたえて、この大鳥居の傍に墓碑をたて、霊を慰めたのではなかろうか。長らく埋もれていたが、今回玉垣建立にあたって、発掘されたのも何かの奇しき縁である。余りにも死亡と建立の日が近くにあったため、以上のことが想像される。
約270年前の亨保の時代(8代将軍吉宗)を思い浮かべてみる時、先人の努力と村民の結晶の大鳥居が一段と光彩をそえているようである。
天然記念物、高田明神、伝説、文化財、大鳥居等、幅広い、奥深い白山神社にひときわ崇敬の念がわいてくるような気がする。
※孝助の嫁
土岐市西窯町に大富池がある。土手には歩道が設けられ、池全体が公園になっている。池の南側に約200mの桜並木がありちょっとした桜の名所として地域の人達に親しまれている。
× × ×
昔、池の周りは昼間でも日が射し込まないほど深い森だった。森の細い道を通らないと町に出られない里人たちは、必ず2、3人で誘い合って出かけた。
ある年の春、眼病になった母親のため孝助は町の薬屋に出かけた。池のほとりで目の覚めるような純白の小さな花が一面に咲いている木を見つけた。思わず近寄ると、木の下で子ギツネが大きなトゲを刺して苦しんでいた。優しい孝助は手当てしてそっと帰してやった。
翌年の秋の取り入れ時、母親が病気で寝込んだため、孝助は大忙しだった。ある晩、疲れた体を横にしていると、いつの間にか枕元に美しい娘が座っていた。「どうか私を、おまえさんの嫁にしてください」と頭を下げて頼んだ。
孝助と嫁は2人で田畑に精を出した。そのうち嫁さんのおなかが大きくなってきた。「私が来てと言うまでは、絶対に見に来ないよう、約束してね」と嫁は奥の部屋に閉じこもった。
「オギャア、オギャア」と元気な声がしてから3日目の晩、がまんしきれずに孝助がのぞきこむと、森の中の白い花の下で助けたキツネが赤ん坊を抱いていた。
本性を見られたキツネは、お守りの金の棒を置き、18年後、白い花の下での再会を言い残すと消えてしまった。
白い花は、国の天然記念物に指定されているヒトツバタゴのこと。この地域で自生しており、大富池の東隣にある白山神社の境内にもある。新緑の5月、純白の小さな花がいっせいに咲き乱れる。
19.セラトピア土岐の地(平成3年9月掲載)
「ふるさと泉」の自治人物編の口絵に天保10年(1839)の土岐川絵地図がのっている。岐阜県歴史資料館に所蔵されている笠松陣屋堤方役所文書の中のものである。
これは土岐川をとりまく久尻村、大富村、河合村、上肥田村、下肥田村、上浅野村、下浅野村、高山村、土岐口村の庄屋、年寄、百姓代がそれぞれ署名捺印している。今日でいう公文書の地図である。(何故か定林寺村だけが落ちている。)
その地図はこの地方の殆どが天領(幕府直轄領地)であったため、その所管の笠松陣屋へ出されたものである。その地図によると、はっきり土岐川の北に「高山村の内」と書いた土地がのっている。現在のセラトピア土岐の地域である。これから考えると、この地が高山村であった歴史は相当古くからだと考えられる。
又今井柳右衛門の書きのこした明治初年の大富略記によると、土岐川の洪水には昔から悩まされつづけて来たことが記されている。現在の主税町の土岐川に面した所(土岐津橋の上)に旧名川キという所がある。この場所で何回も洪水のため土手がきれて平和町一帯に大被害をもたらしている。川キ語源は川岐(川のわかれているところ)か、川切れから名付けられたものであろうか。
こんなことから大昔は、高山村を通っていた下街道(旧19号線)と大富村、久尻村を通っていた脇街道(旧明治街道)との間の広い一帯(現在の主税町、大和町の南から平和町、そして高山迄)は一面の川原でその中間が大富村、高山村の村境と決められたのであろう。
しかし、農民は少しでも農地を拡げようと考え、川原を開拓して新田をつくっていった。そして洪水が来る。堤防をつくるという治水の歴史の繰り返し、今日の川に狭められていき、現在地が北に残された形となった。川キの近くに日神子(主税町)という地域があった。ここに現在白山神社境内に祀られている日神子神社があった。
なおこの土岐川絵地図とおなじ時代にもう1枚の絵地図がある。これによれば久尻村の土岐川沿いにお宮がのっている。これが度かさなる洪水により、現在の久尻神社の位置に移転された。その跡地(旧土岐津産業工場地)は現在も久尻神社の所有地である。往時は大富村も久尻村も、土岐川の治水を祈って川の近くにお宮を祀ったものであろう。
土岐川の北に残った高山村の土地が次第に脚光をあび、3町組合立土岐津病院から土岐市民病院となり、今やセラトピア土岐の偉容となったのである。
20.久 尻 城 (平成9年9月掲載)
泉町民が朝夕ながめて親しみをもっている山は、久尻の丸山である。
昔の泉小学校の年中行事の1つは、夏休みの丸山登山であった。
朝暗いうちに集合、土岐川べりから中央線を横切って登山し、丸山の頂上で日の出を拝んで下山した。
また、気象情報の発達していなかった昔は、台風のくる知らせは、丸山に標識が上がることによって知ったものである。当時は山頂が森になっており、巨木もあったが伊勢湾台風の頃倒れてしまい、とうとう丸坊主になり、形をかえてしまった。
このように昔からなじみのあった丸山は、もっと昔から郷土に関係はなかったのだろうか。
土岐市史をひもとくと、土岐氏の系図の中に大富高田城主初代美濃守護土岐頼貞の兄の孫に久尻四郎貞高がのせられている。また土岐氏の防備の図に久尻城(城ヶ峯城)が記されている。
そんな事から岐阜市から城の研究家がたずねてこられ、城ヶ峯といわれる場所をさがして丸山付近に眼をつけられた。種々聞き合わせた結果、古老の話によると、中央線17号トンネルの上の北付近で、現在は珪石が採掘されたため形が変わってしまっているが、昔はそこに堡塁(ほるい)の石積みがあったと言われたので、その場所を見てまわったがとうとう石積みを見つけることは出来なかった。しかし出丸の跡ではないかと考えられる場所はあった。
今その場所に立って眺めてみると、南は土岐川に臨み、断崖絶壁、西は丸山になだらかに続き天然の要害、東は深沢川の谷を隔てて丘となり、土岐氏の居城大富城(高田城)そして河合城へと続いている。
こんな状況から考えて久尻四郎貞高は、丸山を物見台としてその東の山裾に天然要害久尻城を築き、土岐氏の一族として高田城の西の砦として君臨しようとしていたことが想像される。
しかし、土岐氏は頼貞の子頼遠が岐阜方面に西遷していったので、余り長く続かず、久尻城築城までいかず、堡塁の程度で終わってしまったのではなかろうか。
そして時代は室町から安土桃山時代となり、勢力の中心は平井氏から妻木氏に移り、遂に久尻城は日の目を見ずに終わってしまった。
現在はその付近が、中央高速道と東海環状線が交叉するジャンクションになるため、その工事が進められている。
21.織部のあとを訪ねて(平成8年3月掲載)
2月28日は土岐市の織部の日であり、数年前から種々の行事が行われている。土岐市で発行された「
風炉のままに」によって
古田織部が紹介されている。国指定文化財「元屋敷陶器窯跡」付近より織部焼の陶片も沢山発掘され収蔵庫に収められている。

しかし、研究者及び学識者の間には、古田織部は土岐市に関係がないのではないかと言われ、何か割り切れない気がしていた。
しかし、陶祖の
後裔加藤正治さんの家には「古田織部正軸」があり、土岐市の文化財に指定されている。織部がいたのではないかという屋敷跡の伝承もあり、識者の間で問題視されている古い墓もある
こんな事から郷土史同好会では、古い墓の研究家を呼んで古田織部のロマンを訪ねてみた。
先ず加藤さん宅で古田織部の軸を見せて頂く。墨痕鮮やかに花押のある漢文の手紙文と思われた。続いて中央道北の清安寺の墓地を訪れた。粗末な墓である。由緒の書いてある五輪塔の基礎石(地)が紛失しているので不明であるが、上の笠(火)の部分は安土桃山時代(織部の時代)のものであるとの事であった。長い間のうち散逸した時もあり、これが
纏められているようであった。織部の弟子がその徳を偲んで作った墓とも考えられ、現在は無縁仏であるが綺麗にされていた。
屋敷跡といわれる場所は、加藤筑後守の「元屋敷陶器窯跡」から適当な場所にあり、頷かれるような気もした。
続いて陶祖の菩提寺の清安寺を訪ねた。陶祖及びその一族の墓が、清安寺の開山以後の歴代住職の墓と共に1か所に祀られていた。近くには五輪の塔も数基あり、古墳もあった。こんな環境・雰囲気が伝承を裏付けるように思われた。
「
風炉のままに」の筆者
高橋和島氏も、そのあとがきの中に「古田織部と織部焼きの名で知られる美濃の焼き物と、どのような経過で結びつくのか明確でない」と言っておられる。この盲点を解くのが、この清安寺の一隅の墓や伝承の屋敷跡及び「古田織部正軸」にあるのではないかとも話し合った。
今後は郷土のためにも市民ともども古田織部の跡を求めていきたいものである。
22.久尻用水 (平成2年3月掲載)
江戸時代には「久尻村には娘をやるな」と言われていたという。
何故だろうか。昔の久尻村は、水が少ないため、田植え、日照りに苦しみ、収穫が少ないので、非常に苦しかったためである。
大きく流れている土岐川は眺めていても低くて水を揚げることが出来ない。かえって大水が出ると水が逆流して来て被害を及ぼす。伊野川は大富村の川のため水は引けない。久尻川・大坪川は川が小さくて水量が乏しい。奥山の水はすべて深沢川となって五斗蒔から山の向こうを流れて行く。
米ですべての生計をたてていた当時の百姓は、その生活を豊作。凶作に大きく左右されていた。凶作に苦しむ久尻村へ娘を嫁にやりたくない当時の他村の農民の気持ちがわかるような気がする。
そこで久尻村は、庄屋や村方3役を中心に山向うの深沢川(山川)から水を引こうと考えた。しかし、測量器具のない当時、山の向こうとの高低レベルを測ることは容易なことではなかった。村人は久尻村の大工の棟梁土本善七(土本文夫氏先祖)の知恵を借りて測量を成し、役人の指導も受けて「久尻用水路建設案」を作り、笠松代官所へ提出した。
しかしながら、難工事で費用もかかる故、容易に許可がもらえず、何回もの陳情の結果、最後に自分達ですべての責任をもって工事をおこなう「自普請」という条件で許可された。時に文政6年(1823)、今から167年前のことである。
それから3年間、農閑期を利用して百姓達の手により岩を割り、石垣(784㍍)を築き、トンネル(64㍍)を掘り、3年がかりで五斗蒔より天王池までの約5049㍍の水路を完成させた。(詳細はふるさと泉参照)
文政9年(1826)の当時の窯郷庄屋岡田作左衛門(岡田 脩氏先祖)宅に保存されている「当戌用水路自普請出来形帳」によれば、久尻村は本郷・窯郷に分かれ、戸数205戸、人口894人となっている。この少人数であれ程の大工事がよくやれたものだと思われる。
今回ふるさと泉編集にあたり泉町の各地を廻った結果、土地を鎮める猿田彦神社が久尻区のみ数社に祀られていることがわかった。久尻村の人達が如何に水を引くため各所で工事をやって来たかを伺い知ることができた。
以来貧しかった久尻村は次第に豊かになり、近郷の中心になっていった。
久尻用水は、昭和に入り駅前地区が悪水に悩まされていたので、これを利用して簡易水道を作り、飲料水にも使われた。
現在は区画整理等により耕地が減り、伝統を持つ久尻用水も不要となり、丸石山腹の簡易水道の水槽と共に往事の跡を留めている。
23.五 斗 蒔 (平成3年3月掲載)
五斗蒔の地名の由来はどこから付けられたものであろうか。今残されている遺物からそれを偲ぶよすがはないようだ。
土岐市が五斗蒔の里開発のため、高根山古墳跡公園「志野の里」を作ったことでもわかるように、昔は西の八幡を含めてこの一帯から大平・大萱(共に可児市)にかけての山々や山麓一帯は古陶器焼成の銀座とも言われる地帯であった。
また、この平地は深沢川の水を利用して田が作られたが、多分種子が五斗(75㌔)位しか蒔けない田しか存在しないだろうということから「五斗蒔」と名付けられたのだろう。
現在五斗蒔には、あの一大工事であった久尻用水の取り入れ口が残されている。
久尻用水は文政6年(1823)今から170年前に工事が始められた。その入口付近に立って往時を偲ぶ時、当時として如何に難工事であったかが伺われる。現在、ここには猿田彦神社が祀られている。これは、この用水工事の安全を祈って祀られた神がそのまま産土神となって今日に至っているのではなかろうか。(久尻には用水工事のためか猿田彦神社が多い)この時代岩村藩の命により一時は開拓されたこともあったが、交通不便のためか、放置されてしまったようである。また現在残されている道標(右久々利、左高田道、嘉永4年辛亥3月)から、往時は交通の要路にあたっていたと考えられる。当時各村が藩に収める上納米を、こんだ馬の背に乗せてこの道を通り、木曽川の新村港(可児郡伏見町)まで運んだものである。明治街道の竣工式は明治15年に久々利村で挙げられている。昔の道は久尻村から現在の水晶山付近の峯を通って五斗蒔に下りたが、明治街道の開通により現在の如く谷を通って上る道が開設された。
五斗蒔の今日の黎明は、明治26年6月石黒金次郎氏(石黒輝彦氏の祖父)の入植に始まる。石黒氏は愛知県小牧からこの僻陬(へきすう 僻地)の地に入り開拓を始められた。当時の開拓の苦しかった記録が今も石黒家に残されている。
大正の始め、久尻の太田峯三郎氏(太田美作氏祖父)はこの地で深沢川を利用して、原料を高田方面に求め水車で石粉工場を作られ、昭和の始めまで続けられた。かくして昭和の始め頃まで4軒程であった五斗蒔は明治街道が県道となり改修されるにしたがって面目を一新していった。
昭和48年には陶芸の村の開村、続いて平泉ランドの開業、或いは聖十字病院の開院、はなの木苑の開苑、陶磁器伝統産業会館の開館、また共立ダンボール植松洋紙店その他の工場の進出等今日の発展を見るに至った。なお近く建設される東海環状道路がここを通り、スーパーサービスエリアの設置が地元から強く要望され、土岐市も強く遂進している。ここに車を置き、出入口からこの付近一帯の観光ができるように計画されている。これが実現すれば近く出来る一大団地とともに、またまた一大飛躍が期待される。
24.土岐氏と土岐市(昭和63年12月掲載)
土岐の名は、第40代の天武天皇紀に「礪杵(とき)郡・・・」とあるのが始めのようである。その後しばらくして、土岐郡の名にかわっている。
さて「土岐」の名はどうしておこったのであろうか。岐阜の名は、織田信長が稲葉城や鷺山城、その他の丘の上の幾多の城を見て、岐(わかれた)阜(おか)と中国の地名になぞらえて名づけたと言われる。
今回泉町誌をつくるにあたって、山野を跋渉(ばっしょう)して、丘や山上に如何にも古窯のあとの多いのにびっくりした。先人が其処でとれる土を使い、あちらこちらと岐れた丘や山上で、土器を焼いている様子を見て、礪杵(とき)の名称から土岐の名がつけられたのではなかろうか。
土岐の名をとり入れ、源氏の姓から土岐氏の姓にかえたのは、第56代清和天皇の後えい、9代目の光衡(みつひら)の時からのようである。このようにして土岐の里の名が源氏一族によって名乗られるようになったが、この土岐の名を名実ともに定着させたのは、土岐頼貞である。頼貞は光衡の曽孫で、土岐氏中興の英主とも言われ、美濃国初代の守護、そして地頭ともなり、幾多の功績をのこしている。
そして今でも土岐頼貞の位牌(延命寺にあり)、大富館跡(御所であったが、明治の始め命令によりかえられ伍所となる)、定林寺跡(268年続く、全国第8位)が残されている。又旧土岐郡一帯の宗教が殆ど禅宗であるのも頼貞におうところが大きいといわれる。
思うに土岐の地は、千数百年来土によって生き、土によって栄え、そして今日の土岐市になったのである。
いま全国広しといえども、地名(土岐)が歴史(土岐氏)を語り、土(陶磁器)によって生き、岐(旧土岐郡各町)れて栄えてきた所は他にはないのではないか。
今こそ土岐市民は、土岐市のルーツを知り、土岐氏のあとを見直して、土岐氏をあがめ、由緒ある土岐市の名を大切にしていく事が必要ではなかろうか。
25.土岐国房の館跡(平成9年12月掲載)
最近瑞浪市で見つかった昭和の始めの文書の中に土岐国房の館跡が、泉町大富窯にあったと記されている。幾多の古文書を参考にして著された「土岐の史跡」という本である。
土岐市史や郷土史同好会で研究した資料の「土岐氏一族歴代系図」の中にも土岐国房が美濃守に任ぜられ「住大富」と出ているが、今回これを見直してみた。その系図の中に美濃守の名の多いのにもびっくりした。
土岐国房は土岐頼国の6男であり、あの有名な源頼光の孫にあたり、土岐頼貞の7代前であり、清和源氏子孫の美濃守5代目の当主である。
国房は源氏の頭領源頼義に従い奥州に出陣し、安部貞任、宗任兄弟を追討した。「前9年の役」と言う。祖父源頼光は大江山酒呑童子征伐の古話で有名である。
その国房の館跡が大富窯にあったとすれば一体何処だったろうか。郷土史同好会で種々に話合った結果、仲森の池の西の森の旧日神子神社の跡からその裏山にかけての地ではなかろうかということになった。
想えばあの地は昔は裏山と地続きであったのが仲森の池が造られた時、その放水のため掘割られて今の伊野川となり今日の姿になったのである。
回想してみると泉の地は、東から土岐頼遠が京都の男山八幡宮をお迎えして創建したと言われる河合八幡神社。足利尊氏に従い西国に戦った土岐頼貞が、晩年をすごしたと言われている河合城。父光定の33回忌法要のため頼貞が創建した定林寺。美濃国の初代守護として君臨した頼貞の大富館跡(高田城)。この付近にはないと言われた泉小学校の地の巨大な三輪古墳。土岐氏の守護神であったと思われる白山神社の高田明神。久尻には久尻四郎貞高の屋敷跡やら、その居城久尻城。陶祖加藤筑後守の元屋敷窯跡を中心としたそれ以前の古窯群。こんな旧跡から考えるとき、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、土岐一族がこの地の各所に住み、土岐国房の居城が旧日神子神社跡にあったと考えるのも至当(しとう 当然)ではなかろうか。
土岐の地は前号にのべたペトログラフの時代から古墳時代(乙塚)高田勅旨田へとつづき、その後土岐氏一族が代々住み、土岐頼貞により美濃の鎌倉と言われる如く開花していったのではなかろうか。今回、土岐国房の屋敷跡を思惟(しい 思考)して、その意を強くした。
26.土岐頼貞の史跡(平成4年12月掲載)
郷土史同好会でよく出てくるのは、土岐頼貞である。そう言えば居城の大富館跡あり、定林寺あり、終えんの地は河合城とあり、その位牌は延命寺にある等、約700年前の昔の人でありながら、その事績、足跡が余りにも大きく、かつ生々しく残されている。
武人であり、歌人であり宗教上の功績も大きいと言われる土岐頼貞をもっと解明し、郷土の人々の認識を新しくする必要があると思う。
美濃の守護の命をうけた頼貞が、居をかまえた大富館跡に立ってみると、ここを北辺として土岐川にまたがる当時の館が彷彿として浮かんでくる。そして後醍醐天皇の密命をうけた日野資朝卿が、ここ大富館をおとずれ、頼貞の決起を促した姿がしのばれる。しかし頼貞は自分の難しい立場を考えてのか動かず、10男頼兼及び一族の多治見国長等を京都に向かわせた。しかるに一族船木頼春の妻の内通により未然にばれて失敗に終わてしまう。
頼貞は北条氏の血をうけ幼時は鎌倉で育ち、長じては北条氏に反旗をひるがえし、後には足利尊氏にしたがい歴戦に功をたて、武人としての面目を保った。
一方歌人として幾多の名歌を残し、特に老いに拘わらず尊氏に従い九州に遠征し、東上する時、備後(広島県)の福山の浄土寺に立ち寄り、
われを知る心のなくば人の身に うれへなげきもあらじとぞおもう
を奉納したと伝えられることは有名である。
一方禅宗に帰依し、幼時宋より来日した高僧祖元につかえ、禅宗の普及発展に大いに尽力した。その特筆すべきは父光定の33回忌を行うための定林寺の開創であろう、仏光国師(無学祖元)を勧請して開山となし、後に全国10刹位に列するまでの名刹として、その名をとどろかせた程で、一時は七堂伽藍そろい、輪奐の美を競った時代もあったことだろう。今日旧土岐郡地区が殆ど禅宗であることは、頼貞の功績によるものと考えられる。
かく考えるとき、郷土歴史の上でこのような大きな足跡を残している人が他にあるだろうか。もう1度、土岐頼貞を郷土として考えなおしてみる必要があるのではなかろうか。
27.高 田 城 (平成8年6月掲載)
古文書に高田城が出ているので、先般岐阜から城の専門家が多治見市の高田町をたずねたが、その跡らしきものがないといって来訪された。
大富を中心としたこの地方は、鎌倉時代の末期高田勅旨田といって朝廷直轄の領地であり、其の後高田郷とも言われて来た。この地に最初に城を築いたのは、美濃の土岐氏としての初代守護であった土岐頼貞である。次の頼遠は岐阜市の長森に移っていったが、其の後もこの地は土岐一族が豪族として勢を張っており室町時代の末期まで続いた。その間築城されていたのが高田城(大富城)であり、現在の大富館趾から南へ土岐川に至る一帯にあったと考えられる。
明治初年、上組庄屋今井柳右衛門によって著された「大富略記」によれば江戸時代の地名が次のように記されている。
・御所(大富館趾付近)
明治の始めまでは御所で其の後伍所に改名されている。
・堀田
御所周辺から南一帯の堀・若草竜神の伝承あり。
・屋免田
城を築く技術者 (大工・左官等) が住んでいた屋敷や与えられた田等。
・大島
大島という重臣の屋敷あと。
その他・神宮寺・先祖・御門・茶師前・堂の前・腰前田・・・等。
これらの地名は、大富館趾から土岐川までに広がっている。これにより御所から土岐川に至る一帯に豪壮な平城があり、これが高田城(大富城)であったのではなかろうか。
昭和の始め頃までは現在の大富館趾の周辺に堀があったことは古老の間でよく知られている。何百年の間種々の伝承と共に堀が残されて来たのである。
中央線が敷設され、高田城趾は南北に分断され、あたり一帯が住宅地帯になった。今さら発掘出来ないが、発掘されたら貴重な遺物と共に、歴史のあとが再現されるかもしれない。
それにしても歴史考証の過程で「大富館趾」といわずに、なぜ「高田城」といわなかったのか、大富城趾が高田城趾といわれていたら、高田明神(白山神社)と共に一帯がうきぼりにされてきたのにかえすがえすも残念なような気がしてならない。
28.頼貞と土岐市の遺跡(平成5年3月掲載)
●大富区
白山神社
高田勅旨田 (多治見市高田町より、瑞浪市明世町をへて日吉町にまたがる直轄地) の中心の高田明神と考えられ、土岐氏の氏神である。市指定の文化財あり。
延命寺
大富館跡の東、現在の寺田町にあったが、後現在地に移された。なお定林寺の観音堂にあったと思われる土岐頼貞の位牌が祀られている。
大富館跡
土岐頼貞の居城のあとであり、ここで高田勅旨田を直轄し、この地域に君臨した。当時の豪華さが大富略記に書かれており当時を偲ぶことができる。 (ふるさと泉参照)
●定林寺区
観音堂
土岐頼貞が創建した定林寺が全国10刹の中に入っていたが、寺の中心利生塔のあった地域にあったと考えられる。永禄元年 (1558) 武田勢秋山伯耆守の部下により焼かれ、現在に至っている。現在の位置に昭和28年に移された。
土井氏館跡
土岐頼貞の娘壻、土井遠江守貞秀が代官となり、その屋敷のあった地域で現在も土居町の名を残している。
●河合区
河合城跡
土岐頼貞終えんの地であり、母覚曇 (北条氏の出) も、この付近で死去したことがわかった。
八幡神社
頼貞の2男頼遠が青野が原決戦後、戦勝を祈願して京都男山八幡宮より分神をお迎えして祀った由緒あるお宮である。
●肥田町
浅野館跡
頼貞の居城大富館跡と土岐川をへだてて相対する場所にあり、祖父土岐光行の居城であった。
三栗塚
土岐光行、光定 (頼貞の父) の墓と言われている。
天福寺
87代四条天皇の天福年間の創建とされ、それ以後この付近に勢力をはった土岐氏との深い関係が考えられる。
八剣神社
日本武尊を祭神とした由緒あるお宮であり、東征のみぎり創建されたことも考えられ、土岐氏との関係は天福寺同様である。
●土岐津町
熊野神社
日本武尊が東征より京へ帰る途中、下街道のこの地を通り宿泊され内津峠に向かわれた。土岐氏との関係も考えられる。
●妻木町
八幡神社
土岐頼貞の創建により流鏑馬で有名である。市指定文化財も多数あり。
崇禅寺
土岐頼重 (頼貞の弟及び孫にもあり) の創建によると言われているが、孫の頼重が有力である。市指定の文化財多数あり。
●鶴里町
白鳥神社
日本武尊が祭神で数社あり、中馬街道すじの日本武尊の東征につき関係があると考えられる。細野には白鳥の地名もある。
29.美濃の鎌倉 (平成5年7月掲載)
8月下旬郷土史同好会十数人で、長野県飯田市
開善寺及び高遠町遠照寺をおとずれた。土岐市史及び数ある郷土史料で1度も紹介されなかった定林寺の雲版、及び高山大明神の名の入った鰐口を確認するためであった。
先ず開善寺を訪れた。実に立派な境内の寺である。この寺を見て大昔の定林寺がほうふつとして浮かんで来た。雲版もじつに立派である。「応永丙申年6月1日・濃州定林寺」の銘が入っている。1416年で577年前である。よくもこんな立派なものが大昔に造られたものだ。音も又素晴らしくよかった。これにより当時の定林寺の偉力が偲ばれた。どうして定林寺から開善寺へ移ったものだろうか。開善寺の過去帳のはじめに「定林寺殿存公大居士」(土岐頼貞)がのっている。これから考えると鎌倉に関係のある当時の2大巨寺の交流により譲られたものだろう、という住職の説明をうけた。
高遠町の遠照寺は全くの田舎のお寺であるが国宝のある由緒を持つ寺である。そこにある鰐口の銘文には、「奉寄進濃州土岐郡高田郷高山大明神御宝前・文明15年卯8月施主堅室宗忍信女」とある。1483年で510年前である。遠照寺は当時の高遠城の裏手にあたり戦略上の拠点で、ここに侵攻した織田信忠の軍によって与えられたらしい。寄進をした堅室宗忍信女の墓は現に肥田町浅野の永松寺境内にある。
かく考える時、先般行われた「土岐市ふるさと祭」について、ある新聞は「土岐市には歴史的裏付けになるような史実が難しいことから地場産業志向に転換した」とかいている。瑞浪市、多治見市と違ったやり方に変えねばならなかったと指摘したかったのだろうか。
土岐頼貞を中心とした鎌倉時代の史実、史跡が他市よりも多く現存する中、今回の訪問により他地域にまで土岐市の歴史が広がっていることが確認されたのである。このような現状の中で歴史的裏付けに乏しいと指摘されるのは当局者、当事者の郷土史に対する関心認識がうすく、且PR不足のためであったのではなかろうか。
現在土岐市に於いては他地域に比して郷土史づくりが盛んである。先に鶴里、下石、泉が発刊し、今また土岐津、肥田で進められていると聞く。土岐市全体のほうはいたる郷土史編集志向の中、そして確たる史実を持ちながら、歴史的表現が乏しいため、ふるさと祭の方向転換を余儀なくされたと批判されるのは一体だれの責任だろう。
土岐市の文化は大富館跡、定林寺、河合城、浅野館跡、妻木八幡神社、崇禅寺等に見られるように土岐頼貞及びその一族によって始まるといっても過言ではない。私はここであえて「美濃の鎌倉」として、もう1度歴史性の上にたって土岐市を見直してほしいと願うものである。
30.『土岐氏の時代』を観て(平成6年12月掲載)
11月20日、岐阜公園の中にある岐阜市歴史博物館に於ける特別展「土岐氏の時代」(風月歌舞の世界)に土岐市郷土史同好会のメンバー十余人で訪れた。
特別展のテーマは「土岐氏は南北朝から室町時代にかけて美濃を支配し、禅宗を広め、絵画・文芸を振興するなどして後世に大きな影響をのこした。その土岐氏の歴史と文化を探る」とかかげられていた。
先ず入館して最初に目についたのは土岐氏の系図であった。そして大富館にいた土岐頼貞が美濃の土岐氏の初代にはっきり位置付けられていることだった。美濃の土岐氏は土岐市から始まった。土岐氏は2代頼遠の時に我が郷土から岐阜市にうつり、次第に美濃の国一円を支配下におき、其の後隣国に勢力をのばしていった。頼貞は「土岐絶えなば、足利絶ゆべし」とまで言われて、足利尊氏をいただき、その中心となって活躍した。其の後各方面に功績を残したが、守護代斎藤道三によって亡ぼされ美濃の土岐氏は終わったのである。
次に東濃は勿論県下一円に盛んな禅宗が土岐氏によって広められた。土岐氏の禅宗への帰依は頼貞の時代からである。頼貞が定林寺(焼失)光善寺(瑞浪市・焼失)竜門寺(岐阜―七宗町・現存)などを創建し、禅宗隆盛の種をまいたのが始まりで、今日の宗教文化をみたのである。
絵画、文芸の振興については、土岐氏歴代の書画の逸品が展示されていた。頼貞は系図によれば「歌人、弓馬上手」と書かれている。まことに文武共にすぐれた武将であり、子孫に「文を廃さば、すなわちわが家振るわず」と伝えたと言われている。歌人としてもすぐれた実績を残している。これが実を結び、子孫一族をして幾多の書や画を残させた。今回の特別展が「風月歌舞の世界」というサブテーマで表現されていたのも尤もなことである。このような幾多の大きな歩みを残した土岐氏の始まりが土岐頼貞であり、その居城が大富にあったことから考え、土岐氏文化の搖らんの地は土岐市であるように思われ、我が展覧会のような気がした。
土岐市の「土岐」の名はかくの如く歴史的には、美濃の各地から全国的(茨城県、愛媛県等)にも広げてくれたのは土岐氏であり、産業的には美濃焼の陶磁器であろう。「温故知新」土岐市発展の出発点が1つには土岐頼貞とも考えられて、もう1度土岐氏を見直してみなければならないとしみじみ感じた。
先般茨城県より土岐氏関係の方が土岐氏の故郷を訪れるべく瑞浪市に来られ、土岐市へも訪ねてこられたことが報道されていた。又今回の「土岐氏の時代」の特別展により、土岐氏への認識が高まり、そのルーツを知るべく、土岐市をたずねる人が多くなるのではなかろうか。
今後それらの人々が来られた際、土岐氏の昔を語る表式も立っていなければ研究物もない。又遺跡を語る市民も少ないのではないか。
土岐頼貞の偉大さを今さらながら偲びつつ、我々の力不足を感じ、会場を辞した。
31.安土桃山の土岐(平成6年2月掲載)
昨年11月23日、土岐市郷土史同好会のメンバーで、大津市坂本にある
西教寺の明智熈子(ひろこ)の句碑の建立除幕式に参加した。

明智光秀の妻 熈子の郷里が我が土岐市妻木町であるということから招待をうけたのである。会員の1人が光秀の郷土 可児市を訪れ、可児の地酒「光秀」を手に入れ持参し、お供えをした。
西教寺は
天台真盛宗総本山で、実に立派なお寺である。ここに明智光秀とその一族の墓がある。この墓の前に俳聖 松尾芭蕉が明智熈子を読んだ句、
「 月さびよ 明智が妻の はなしせむ 」の碑が今回建立されたのである。
美濃から油坂を越えて越前にのがれていった光秀が貧窮のため、他の武将たちを集めた連歌の会の宴会が開けない。そこで夫の面目をたてるため、自分の黒髪を売って金を工面した話が後世に伝えられ、約130年後 芭蕉は奥の細道の途中、越前の
丸岡 称念寺に寄りこの話を聞き、いたく感激してのちにこの句を友の妻に送ったといわれている。
この妻にして光秀があり、戦国の武将が多くの夫人を連れていたのに、光秀はこの妻に感激して熈子以外は連れなかったといわれる。儒教の盛んな江戸時代には反逆の徒と見られていたが、今日では見直され、妻 熈子は内助の鑑として句碑の建立となったのである。あの有名な細川ガラシャ夫人は光秀の娘であるが、この母にしてこの娘ありと考えられ、細川内閣(先祖)の誕生により大きくピックアップされてきた。
この熈子夫人が妻木城主 妻木藤右衛門広忠の娘と言われ、広忠は坂本城落城に殉じ、明智氏と共に
西教寺に葬られている。まさに土岐市の生んだ賢婦であり、妻木氏が古田織部と共に大きく見直されてきた。
陶祖 加藤景延の美濃焼の開発は勿論であるが、それを中心とした武田氏侵攻による天福寺、定林寺の炎上、織田氏の将 森長可による高山落城、古田織部の貢献、関ヶ原戦後の妻木氏の活躍等、もっと大きく広く安土桃山時代の土岐を見直す時がきたように思われる。
32.明智熈子 (平成7年3月掲載)
今日も妻木城址は長い歴史を秘めて静かに眠っている。しかし、今やその妻木城がやっと目を覚ます時が来たようだ。妻木氏
後裔の妻木良郎氏の遺品寄付の申し出による妻木氏歴史の見直し、大茶人 古田織部の土岐市での「織部の日」を設ける等の再認識、婦徳に輝く明智熈子の紹介等である。
妻木氏は妻木城址顕彰会により紹介され、古田織部は「
風炉のままに」等により土岐市によって大きく取り上げられて来た。私はこの際 俳聖 松尾芭蕉をして強く感動させた明智熈子の生い立ちを考えてみたい。
明智熈子は妻木氏第12代城主 妻木藤右衛門広忠の長女であり、明智光秀の妻である。
それでは妻木藤右衛門とは如何なる人物であろうか。藤右衛門の位牌は今も、妻木氏の菩提寺 崇禅寺にまつられており、また氏神八幡神社の棟札にもその名が記されている。藤右衛門は織田信長の次男信雄に従い、武田勝頼討伐のため、信州高遠城を攻める等歴戦の勇士であった。最後は我が子安忠と共に娘婿 明智光秀に従い、本能寺の変に加わり、山崎の合戦に敗れて天正10年6月18日 大津
西教寺で、69歳を最後として自刃したことが
西教寺の過去帳にしるされている。
同時に藤右衛門に従っていた多くのわが郷土の一族郎党が戦死または自刃したものと思われる。その墓は明智一族の碑として坂本城近くの明智氏の菩提寺、
天台真盛宗総本山
西教寺にまつられている。
藤右衛門の長女に生まれたのが明智熈子であり、次女瑞木は
小里城主(瑞浪市)小里国太郎に嫁いでいる。小里国太郎は瑞木の叔父頼和(藤右衛門の弟で上郷日東氏の祖)と共に織田信長に仕えていたので、本能寺の変では織田信忠に従い、二条城で共に戦死している。悲しくも骨肉相食む結果となってしまったのである。
古田織部は藤右衛門の妹の孫であり、熈子とはすじか従弟に当たっていると伝えられている。
妻木氏と明智氏は美濃の土岐氏の初代といわれる大富城主 土岐頼貞(妻木八幡神社創建者)より5代目の子孫に当たっている頼秀(明智氏の祖)頼照(妻木氏の祖)兄弟の所でわかれている。そして各々の五代目の子孫が光秀であり、広忠である。かくのごとく明智、妻木両家は、土岐氏の一族として親戚の間柄にあったので、光秀と熈子は許嫁の関係にあった。
妻木川の清流に育った熈子は、天性の美貌にますます磨きをかけていたが、運悪く「ほうそう」(天然痘)にかかってしまった。危うく一命をとりとめたものの、その美しき顔の左頬にあばたが残り、見るも哀れな顔になってしまった。
しかし、光秀(25歳)は婚約を解消せず約束を守り、熈子と結婚した。熈子は光秀のその心にうたれ、ここに熈子が光秀と行を共にした波乱万丈の一生が始まったのである。
33.『明智光秀とその妻熈子』の講演会(平成6年9月掲載)
去る5月18日、土岐市教育委員会主催の生涯学習講演会に「熈子」「濃姫と熈子」の著書である作家の中島道子さんを埼玉県より招き、「今よみがえる明智光秀とその妻 熈子」の演題のもとに、講演が文化プラザ・サンホールで開かれた。花の木大学生に一般市民も混じえて約800名に及ぶ大聴衆で盛会であり、大きな感銘を皆さんに与えたようであった。儒教中心の時代は逆賊として取り扱われてきた光秀の評価が最近は変わってきたし、松尾芭蕉が「 月さびよ 明智が妻の はなしせむ 」とほめたごとく女性の鑑ともいうべき明智熈子が妻木氏の出身であることが解ってきたためであろうか。
この講演会のために大津市から明智一族の菩提寺である執事 前阪良憲氏、福井市東大味の明智神社顕彰会長、隣の可児市の明智城址保存会長等も来て頂き大きく光彩をそえてくださった。
午後は妻木町の崇禅寺及び八幡神社を訪れた。崇禅寺には、明智熈子の父 妻木藤右衛門広忠の位牌があり、八幡神社には同じく妻木藤右衛門の棟札もあって、明智熈子と妻木氏との関連が明確にされて良かった。
併せて、土岐市発行、高橋和島氏著の「風炉のままに」によれば、その中心人物であり、織部焼誕生に大きな影響を与えた戦国の武将で大茶人でもあった古田織部が、熈子とはすじか従姉(妻木藤右衛門の妹の孫)に当たり、古田織部と共に盛んに活躍した小里彦太郎の妻 瑞木は、熈子の妹であることもわかり、身近な人の感を深めた。どうかもう1度「風炉のままに」を読み直して下さい。
先に紹介した定林寺の銘の入った飯田市 開善寺の雲版、高山大明神銘入りの高遠町 遠照寺の鰐口等からも、併せて土岐市の歴史の幅の広さを知ることが出来た。
中島道子さんに指摘されたごとく、こんなに、郷土に歴史上の遺跡、遺物、人物が他都市よりも多く有るにも拘わらず、余りにも市民が無関心ではなかったのか。
今後はこのように誇り得る歴史が、そして土岐市民に、施設に、設備に、そして行事を通して定着するよう みんなで真剣に考えていきたいものである。
34.明智光秀公顕彰会に参加して(平成8年9月掲載)
6月15日、大津市坂本の西教寺(明智氏の菩提寺)で明智光秀公顕彰会があり、出演者及び 金津、曽我両市会議員をはじめ郷土史同好会のメンバー等約40名が出席した。当日は、土岐市詩吟詩舞愛好会により、「明智熈子をたたえる詩吟詩舞」が奉納され、且つ、駄知町のムービーズによる「明智熈子を訪ねて」の映画が発表されるためである。
総会に当たって土岐市会議員の金津保氏により、土岐市長のメッセージがおくられ、終了後、映画及び詩吟詩舞が発表された。西教寺の客殿の畳の間ではあったが、日頃練磨された演技や、遠く北陸から近江にまで足をのばして作られた映画に全員が魅了され、日本各地から集まった明智公顕彰会員約300名に大きな感動を与え、翌日の読売新聞にも報ぜられた。
まさに土岐市オンパレードの日であり、後日の大津市市制百周年記念行事に発表してほしいとの話もあったと聞いている。
この発表により明智熈子が土岐市妻木氏の出身であることが明智公顕彰会で認められ、天下に定着づけられたことは予想外の大きな成果であった。
想えば種々ある明智氏に関する古文書には熈子はいろいろの名で出ており、出身地も諸説がある。今日のような情報機関の発達していなかった当時としては止むを得なかったことであろう。しかしNHK大河ドラマ「秀吉」では「熈子」の名で出演され、今回の明智公顕彰会総会において、明智氏に関係があり、且つ関心のある人々によって妻木氏の出身であることが はっきりと認められたことは共に誠に幸せであった。
郷土史同好会で「明智熈子を訪ねて」の本を作った時は、正直なところ絶対的な自信は無かった。発行した後、大河ドラマには熈子はどんな名で出てくるのか、もし外の名で出たら、本を読んで下さった皆さんに、どうお断りすべきかも考えていたので「熈子」の名の出た時には安堵の胸をなでおろした。
今日、歴史上の幾多の人物が見直されつつある。その最たる1人は明智光秀ではなかろうか。そして、その妻 熈子が脚光を浴びてきたのである。
土岐市の歴史上に1人の偉人が増えた。土岐市民は自信を持って顕彰し、市民の後世の鑑としていくべきだろう。
あとがき
自治だよりは、時には、お願いした原稿を頂けなかったこともありましたが、皆さんの御協力でともかく今日迄まいりました。
郷土史同好会も「ふるさと泉」出版後、有志により平成2年1月発足し、隔月に年6回開き「明智ひろこを訪ねて」(3000冊)を発行し好評を博した。
今後も「自治だより」と一体の歩みを続けてまいりたいと考えております。
出版に当たり構成、編集、ワープロ打ち等は全て作成委員によって行ってきました。皆さんのお手許にある「自治だより」と照合して頂くと時代の移り変わりが理解して頂けると思います。
| <自治だより編集委員>
金津 保、甲川清治、白石孝二
水野孝太郎、田中鈴夫
<編集作成委員>
安藤恭彦、鬼島良太郎、楯 滋夫
水野輝夫、若園賢三、鷲津利行
| <郷土史同好会>
[河合]
林 力男
[定林寺]
沢田 千歳 島崎 和夫
水野 輝夫 若園 賢三
|
[大富]
安藤 恭彦 石川 三千男 鬼島 良太郎
熊谷 茂一 小木曽 尚久 大東 義美
楯 滋夫 田中 鈴夫 土屋 孝三
早瀬 典夫 伊佐治 美奈子 石川 その枝
清水 久美子 土屋 タネ子
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[久尻]
金津 保 川村 諦観 永瀬 本美
宮部 亮司 鷲津 利行 沢田 清子
岡田 美恵子 中村 美智子
[土岐津町]
小島 和昭
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