35.駅前の発展(1998H10-6 掲載)
ふるさと泉自治人物編の第一頁に「明治5年純農村時代の泉町」という地図がのっている。
これによると駅前地区には南北に通ずる道と、真中を東西に伊野川が流れているのみで、部落なく家もなく、土岐川に橋もなく、一面が沼と河原であったらしい。
こんな駅前地区の開花は、明治35年の中央線開通による

土岐津駅の開設から始まった。中央線は始めは土岐津町を通る予定であったが、高山地区の反対にあい、大富地区からも反対をうけて、久尻の不毛の地の現在地にきまった。駅の西のトンネル(19号)が土岐津町側にむいているのがその歴史を証明している。明治の終りに駅裏の郷町にあった泉村の役場が駅前の久尻と大富の境に移され、その後着々と発展していった。
しかしその発展も伊野川以北の東西に限られていた。伊野川の南(中央町・更生町)は当時一面の畑であった。土岐郡の中心土岐津町(駅名でわかるように)へ行くには東は高山橋、西は永久橋により、中央は現在の中央橋の東の榎の木に仮橋があったのみで、大水でいつも流されていた。
又、駅前付近は沼であったためか、井戸を掘っても水が悪く、これを濾過して飲料水として長い間苦しんでいた。昭和の始め久尻用水の水を利用し簡易水道をつくりこれを解決した。
昭和9年には長年の懸案であった中央橋がかけられ伊野川南が発展し、昭和18年久尻区より分離し駅前区として独立した。昭和21年には約8年かけた区画整理が終り今日の発展となった。
今緑が丘の山頂に立って駅前発展の姿を見るとき、そこに昭和10年に時の鉄道大臣内田信也の筆による土岐津駅建設記念碑(ふるさと泉産業文化編432頁)が立っている。平成元年ふるさと泉編集の時はここから駅前が一望できたが、今は雑木が生え木立の中にかくれてしまっている。
又そのそばには久尻用水からひいた駅前簡易水道の水槽があったが、それも今は宅地造成のためなくなり、わずかに引水の溝のあとを残すのみで簡易水道と共に消えさってしまった。今は榎の木公園の片隅に立てられている「大泉土地区画整理竣工記念碑(昭和14年起工昭和21年竣工)」のみである。
久尻の歴史は乙塚が示すが如く千有余年と古いが、駅前の発展は約百年である。
泉の歴史シリーズ [35] 郷土史同好会 田中鈴夫
36.大富の大日如来(1998H10-9 掲載)
字大日、屋免田(東上町)に河岸段丘を通る旧県道があるが、かつてその下にも川沿いに河合から続いている道があり、寺持ちの田も8町歩程あったというが今では川の流れが北に変わり、田畑、道も消失して昔日の面影はない。
往昔、大日の土岐川北岸に御堂があり、
大日如来像が安置されていたがある年大雨が降り続いて大水となり、大日如来像御堂と共に流失したという伝承がある。
その後、大日如来像が春日井市大留町の玉野川土岐川右岸に流れ着き、村人たちに拾われて祭られていることが分かった。そこで明治の末頃に当時の大富上組長水野次郎がかの地へお迎えに行ったところ、既に立派な御堂が建てられて安置され、近在の人々に崇められていることが分かり、断念して帰村したとのこと。

いつしかこの事実は人々の記憶から薄れて、今これを知る人は僅かに屋免田の水野繁敏・奥村咲両氏のみである。
この伝承検証のため水野氏に案内をお願いして平成10年6月24日に春日井市大留町の禅源寺を訪れた。
野崎瑞芳尼住職に快く迎えられて、寺の由来、大日堂と呼ばれる本堂に安置されている大日如来坐像について説明を受け拝観させて頂いた。
この寺は古くは浄土宗であったが、現在は臨済宗妙心寺派である。本尊は金剛界大日如来坐像で頭には五智の宝冠を戴き智拳印といって左人さし指を立てその指頭を右の拳で握っている。丈は4尺5寸(約135cm)、奈良時代の高僧
行基(668-749)の作と伝えられ、古くて貴重な仏像であるが、破損のため御腕の修理がされている。色塗りの手も加えられているため惜しくも重要文化財の指定は受けられなかった。
破損の御腕は「本尊大日如来古御腕」と箱書きされ寺宝とされている。
当地では次のように記されている。
濃州長瀬村(多治見)に安置されていた大日如来像が玉野川の氾濫によって流され、大留の川岸の椋の大木に引っかかっていたのを村人が草堂を建て安置した。これは応永4年(1397)旧暦8月14日である。
しかし長瀬村の大日は土岐川畔より奥地にあり確たる証はないようだ。
大富のその頃の時代背景は不明であるが、大富館の初代美濃守護土岐頼貞公が没したときが暦応2年(1339)であるから50余年を経ている。
泉の歴史シリーズ [36] 郷土史同好会 大東義美
37.大德碑 (1998H10-12 掲載)
大徳町は泉中学校一帯の町である。昔は大徳原と言われていた。これは道関坊大徳の碑があることから名付けられたものであろう。
大富北辺の地は東から延命寺、三輪古墳・白山神社(高田明神)・国房館跡・久尻乙塚古墳と並ぶ中 何故大徳碑がここにあったのか疑問視されていた。
stv
昭和22年泉中学校が開校され、そこにあった5本の碑が運動場の北側に祭られていた事を当時の生徒の皆さんは覚えておられることであろう。
その後運動場拡張工事のため片付けられ、その中の道関坊大徳碑(嘉永3年、1850)のみ泉中に残され、御鍬大神宮その他の碑は現在白山神社境内に移され祭られている。大富略記によれば江戸時代は泉中学校南の一帯(神栄町)は丁田といわれ、その小字に松林寺沢という地名があった。これは現在の泉中運動場の西端に沢があり、これが流れてきた所の地名である。これから考えるとこの沢の源(泉中)に松林寺という寺があったのではなかろうか。
次に天保6年(1835)に大富村百姓代から笠松御役所に出された「大富村差出明細表」が岐阜県歴史資料館にある。
これによれば当時大富村には四か所(白山宮、日神子、御鍬大神宮、雷大神宮)のお宮が記されている。白山宮は白山神社、日神子は土岐川べりから仲森池西の地に、そして白山神社境内に移されている。雷大神宮は現中央道北の山頂にある。残りの御鍬大神宮はこの大徳原に祭られていたのである。
以上の二点から江戸中期、泉中学校一帯の地に神仏習合で松林寺と御鍬大神宮とが祭られており、そこに道関坊大徳という傑僧がおり、その徳がたたえられてこの碑がたてられたのではないか。
猶北部には昔尼僧が住んでいたという伝誦がある。大富略記によれば「庵が洞」という地名が残されている。
又東端に鐘鋳原という地名がある。これは宝暦4年(1754)に延命寺の釣鐘が鋳造された所であり、戦後の農地改革まで年の暮には延命寺が餅を供えておられた(ふるさと泉)
かく考えていく時、大徳町一帯は松林寺、御鍬大神宮を中心とした霊地であり、聖地とも考えられ、ここに道関坊大徳の碑があったのはむべなるかなとうなづける。
泉の歴史シリーズ [37] 郷土史同好会 田中鈴夫)
38.稲荷さま (1999H11-3 掲載)
大富延命寺に次のよう古文書がある。
正一位土岐稲荷大明神安鎮之事「右雖為本宮奥秘・・・」日本稲荷総本宮、
愛染寺。嘉永7年3月吉辰(1854)
これはペリーの率いるアメリカの黒船が来て太平の眠りをさまされた翌年のことである。
この迎えられた稲荷様は神仏分離令により、延命寺から各所にうつされ現在は白山神社境内に祭られている。
そこで日本稲荷総本宮愛染寺とは一体どこであろうか。豊川稲荷の絵本宮は現在もお寺であるので、伏見稲荷ではないかと考えられ、白山神社より京都の伏見稲荷社務所に問合せたところ、事務員は昔の事を知らなかったのか否定された。
そのため当時の氏子総代の奥村義夫さんより依頼をうけて市の図書館で調べてみたがわからない。それで市の図書館より県立図書館に調査依頼をしてもらった。しかし一年たっても返事がない。そこで直接岐阜の県立図書館へ行ったところどうしてもわからないとの事であった。そこで調査方法を聞いて岐阜県歴史資料館へ行って古文書を調べた。しかしここでもわからない。研修員に協力を願ったがわからない。止むを得ず岐阜県歴史資料館名で理由を話して伏見稲荷に問合せてもらった。事務員が宮司にお伺いをたてて始めて愛染寺が伏見稲荷であることがわかった。2年間でやっと解決することが出来た。昭和56年だった。
想えば神仏習合の時代は神社と寺院が一緒だったが、明治の始めの神仏分離令により、豊川稲荷は寺院として残り、伏見稲荷は愛染寺を廃止し伏見稲荷の名のみとなったのである。
定林寺の氏神 稲荷神社はもっとも古く元弘元年(1331)に愛染寺より迎えられて
産土神として祭られ幾多の変遷を経て現在地に祭られている。(ふるさと泉)
久尻の丸石稲荷は次に古く文化10年(183)に愛染寺より迎えられたことが御神体の箱に記されている。丸石に祭られていたのが昭和43年現在地に移され社名として残っている。(ふるさと泉)
古来稲荷様は衣食住の神として御神威高く輝き五穀豊穣、産業振興、福徳円満、狐をお使いにするとして広く住民の信仰を集めている。泉町の著名な稲荷様はすべて愛染寺(伏見稲荷)よりの分身であることがわかった。
猶お末社、路傍社の稲荷様を数えれば際限がないだろう。
泉歴史シリーズ [38] 泉郷土史同好会 田中鈴夫
39.郷倉橋 (1999H11-6 掲載)
定林寺川にかけられている幾多の橋の中に郷倉橋がある。延命寺の南の道路を東に行って定林寺川にかかっている橋のことである。
この郷倉橋の橋柱に今回陶製の旧殿と仏像がかかげられた。
定林寺1世、仏国国師様1310年頃「定林寺」を建立し定林寺1世になられました。観音堂開祖、定徳坊様1558年「定林寺」は火災に遭い焼失してしまいます。そこで定徳坊様が1677年に観音堂を再建し開祖と成られました。と記されている。
そこで何故この橋に郷倉橋と名づけられたのだ。ろうか。それは江戸時代定林寺村の郷倉がこの橋の東南にあったので名づけられたのであろう。「ふるさと泉」によれば泉町の郷倉は次の如く記されている(村内名細帳)
河合1 (中野町)
定林寺1(本郷町)
大富3 (中窯町)
(西上町)
(報徳町)
久尻2 (郷町)
(寺下町)
郷倉とは郷の倉のことである。百姓は米を穫り入れると年貢米をもって郷倉に集まってくる。庄屋はここで米見役枡見役と一緒に厳重な検査をして受取り、完全な俵装をして1俵毎に責任を明らかにした中札を俵の中に入れて郷倉に保管し役所の指示を待つ。そして河合村、定林寺村は領主の岩村藩へ届けた。大富村、久尻村は笠松陣屋の指示により、木曽川の新村港(可児郡御嵩町伏見)まで運び、ここから船で江戸まで送られた。
かくのごとく庄屋、年寄、百姓代、組頭のもと村の行政はすべて郷倉で行われており、今日の役場的存在を示していたのである。その郷倉は明治になり新しい自治組織(泉村)が出来てからはその部落の倉庫として残されており、昭和の始め頃までそのかげをとどめていたことは、今なお古老のみの想出のよすがとなっている。
その郷倉の名を永久に留めるために、定林寺村の郷倉の近くの橋が郷倉橋と名づけられた。今回その歴史を一層たたえるべく、泉陶磁器工業組合青年部の手により、古刹定林寺と観音堂の古い姿と共に、定林寺1世仏国国師像及び観音堂開祖定徳坊像がかざられたことは定林寺再現の一端とも考えられ、誠に意味深いことであり、全国十刹に数えられた定林寺の古姿を想起させるものである。
泉の歴史シリーズ(39) 泉郷土史同好会 田中鈴夫
40.定林寺観音堂(1999H11-9 掲載)
定林寺の幾多の歴史と伝誦を今に伝える唯一の建物である観音堂が雨漏り等で痛みがひどくなり平成11年度に新築されることになった。7月11日に延命寺住職をお招きして観音堂の閉眼式がおごそかに行なわれた。定林寺は土岐頼貞によって創建されたが、武田勝頼の家臣 秋山伯耆守の家来 仁木藤九郎によって焼かれた。そのうちの観音堂は江戸時代初期に再建され、正庵の田圃の中に建てられていたが、昭和28年に現在地の小室峰に移転され今日に至っている。
式終了後堂内の数体の仏像が隣接の福祉会館に移された。最後に部屋の隅に埃にまみれた小さな木箱が見つかりその中には12糎程の小型の金属製のずっしりとし重い人物像が安置されていた。この像の背中には「宝亀5年甲寅6月15日御誕生」とはっきりと刻まれていた。
この年号は西歴774年に当り、奈良時代の末期で第49代光仁天皇の御在位の時にあたり、今から約1230年程以前の時代に逆のぼる。一時は「定林寺の歴史はそんなに古いのか」と関係者一同に遥かに遠い斑鳩の古代ロマンが突然
蘇ったかのような雰囲気がただよった。
早速調査するため資料集めにかかった。種々の資料の中から古い人物像の背中の年月日が弘法大師(空海)の誕生日と全く一致していることが解ってきた。尚、定林寺観音堂には弘法大師座像も現在祀られている。

今回見つかった人物像弘法大師像だと考えられるが、いつ頃の作品かについては金属合金内容等の鑑定を要する。弘法大師は村人達の間で「弘法様」と呼ばれ常に親しまれ信仰されて来ている。弘法大師の誕生日が正確に刻まれていることを考えた時、私達の郷土に深くかかわりのあった熱心な弘法様の信者によって奉納されたものではなかろうか。
今年(1999)の秋には新しい観音堂が竣工される。
stv その機会に定林寺を開いた土岐頼貞と信濃の豪族小笠原政経との交流により贈られたと考えられる飯田市開善寺に保存されている「応永丙申年6月1日濃州定林寺」(応永23年、1416年)の銘の入った雲版、及び「定林殿存公大居士」(土岐頼貞)が筆頭に記載されている過去帳をも借用して皆さんの供覧に資して「往時の定林寺」を偲ぶ計画もなされています。
泉の歴史シリーズ [40] 泉郷土史同好会 水野輝夫
41.久尻の語源(1999H11-12 掲載)
地名「久尻」くじりの由来については、土岐郡の西端であること、また土岐氏一族久尻氏の本貫地であったことなどといわれてきた。久尻の前には郡尻と書かれていた。
久尻の地名について貞享3年(1686)に書かれた久尻文書(唐津窯取立由来書)には次の記述がある。
「其ノ比口迄テハ村名二角錐(つのぎり)ト云觹四ノ字ヲ書テ、クシリ村ト読ナリ、扨テ亦筑後窯焼シ時代ヨリハ郡云フ郡ノ字ヲ書テ郡尻村読也」この文書は当時の清安寺高山巌、郡尻村窯郷 岡田作右尉重矩 によって書かれたもので土地の伝承として確かなものである。
加藤唐九郎氏は「久尻を古くは觹」と記し、慶長の頃は郡尻と記した。この地の陶業が世に現われたのは天正年間のことで加藤景光が久尻清安寺の裏山に窯を築いたのに始まる「原色陶器大辞典」と記している。觹の根拠は寛文12年(1672)京都で刊行された「茶器弁王集」の瀬戸窯所之次第(美濃窯摘抄)に觹(くじり)窯があること。
以上の史料から、郡尻の前には、觹四又は觹と書かれた時代があった。ことが知られる。
地名の由来を考えるもう一つの手がかりが次のようである。この地は土岐川をはさんで、北では旧土岐郡の西の端に位置して、その西は現在の多治見市であるが、その昔は虎渓山付近を境に可児豊岡町であった。南は多治見町 市之倉村まで土岐郡がのびていた。郡の西端郡の尻ということとともに、「くじり」という地名(村名)には土地に生きた先人たちの土を焼き器をつくるという業が反映されているのではないだろうか。
「
美濃焼の歴史」(昭和41年刊)の著者 一ノ瀬武氏は、同書の中で「くじり」の語源をしらべてみると古くは「角錐」と書いている。古語の「手の抉」という意味で、大昔から手づくねの陶器をつくっていたからによるもののようである。「抉」は「くじる」の意であると述べている。
久尻と郡尻との使い方は種々雑多であるが、古文書をしらべてみると慶長の頃(陶祖加藤筑後守)は郡尻を多く書き、久尻と書くようになったのは幕末の頃からのようであり、明治になってからはすべて久尻となった。「くじり」という地名の発音は、全国でこの一つだけである。我々は郷土の久尻という地名を大切にしていきたい。
泉の歴史シリーズ [41] 郷土史同好会 鷲津利行
42.河合城(2000H12-3 掲載)
14世紀の河合近在はどのようであったろうか。探ってみたい。
此の地を通る街道は、可児郡美佐野・次月・日吉の平岩月吉洞河合を経て下肥田・小田・釜戸と続いている東山道(中山道)があった。河合から土岐川を隔て下肥田へは旅人達を馬で渡していたようである。今もこの渡しに馬渡しという小字が残っている。
この東山道も日吉本郷から半原に至る北回りの鎌倉街道が出来てから、官道でなくなったが、依然この道は旅人の往来で賑ったと考えられる。
当時大富には、美濃守護土岐頼貞が大富館(高田城)に在城していた。
その館へ後醍醐天皇の密命を帯びた腹心の日野資朝卿が訪れ、北条氏打倒の密計を凝らしたのである。
この計画は決行直前に一族の裏切りにより、失敗に帰した。世に正中の変(1324年)と呼ばれる。
しかし北条氏滅亡後、頼貞は足利尊氏と行動を共にし、幾多の戦功をたて「土岐衰えば、足利亡びん」とまで言われる程であった。
また頼貞の母、信仰厚い覚曇は禅宗に帰依し、河合の地で他界したと言われているが、実際は鎌倉の定林寺で没している。ようである。
頼貞の隠居城といわれ河合城はいつ出来たか判らないが、古文書「岩屋不動由来記」によると、「一日市場館が狭隘で地の利を得ていないことを悟り、下河合(泉町河合)城砦を築いた」。
そして城の東北に八幡神社を祀り、城砦鎮護の神とした。城の東面を大手(表門)とし、西面を
搦手(裏門)とした。
大手一帯には家臣、保母善次郎、井野半平等の屋敷を並べ、一朝有事の備えとした。
搦手のすぐ下は、沢が巡っていて、自然の要害が堀になっている。その沢に大橋をかけ、その橋詰のあたりに、根竹十部・信久以下の家臣の屋敷を配置して、城砦裏の備えとして、一日市場よりこの城砦に移ったとある。
居城大富館が平城(ひらじろ)であるのに対しで、河合城は地形上要害の山城(やまじろ)であるのが特色である。
尊氏による足利幕府が建武3年(1336)11月に開府し、頼貞も幕中筆頭の将の地位を得るが、信頼する六男頼清が病死したため、大富館の七男頼遠に家督を譲り、河合城に隠居した。その後頼貞は、暦応2年(1339)2月22日69歳でこの世を去った。
泉の歴史シリーズ [42] 郷土史同好会 若園賢三
43.土岐一族の子孫(2000H12-6 掲載)
清和天皇の皇孫の経基王が源氏を名乗り美濃守として美濃に着任した事が美濃源氏の始まりとなり、経基王の四代目国房が大富窯郷に館を構えたと云う。国房から七代目の頼貞が初代美濃守護となり「土岐氏」を名乗り大富に館を建て土岐氏の居城とした。やがて頼貞の子孫達は美濃の各地に次第に勢力を伸ばした。その一族は美濃はもとより全国各地へと広がっていった。
しかし、11代美濃守護土岐
頼芸の時代まで約250年続いた土岐氏も終焉を迎える時が来た。頼芸は家臣の斉藤道三に大桑城を急襲され城を追われた後、越前朝倉家や常陸国江戸崎城主の弟治頼に身を寄せた。
その後 上総萬木城主 土岐為頼にも世話になり、信長のはからいで尾張の岩倉、犬山にも隠れ住んだ後に岐礼(揖斐郡)に帰り天正10年12月82才で永眠した。この時期は明智光秀による本能寺の変より半年が過ぎ秀吉の天下となっていた。
頼芸には4人の男子がいたとされるが、大富西窯町 水野孝太郎家に古くから伝えられている「源・水野系図」によれば頼芸の子供の頼品が尾州水野村(瀬戸市)に住み、その子供又左衛門が水野姓に改めた。
弟水野新九郎が妻木村に移住し、長男忠久が大阪夏冬の陣に妻木城主妻木家頼に従い出陣し功績を上げた。その後忠久が大富村に帰り大富村源氏水野氏の始まりとなり、現在の西上町水野氏の殆どがその子孫である。
一方、土岐頼貞の孫の頼重は土岐明智氏の祖となり初代妻木城主となった。頼重の子孫で12代妻木城主妻木広忠の長女
熈子が明智光秀に嫁ぎ、子供の玉子(珠子)が細川忠興に嫁し後年ガラシャと名乗った。ガラシャの16代の子孫が元総理大臣の細川
護熙氏である。
この明智氏の子孫で頼貞より16代目の頼稔が初代沼田城主(群馬県)となり明治まで続いた。その子孫の土岐章氏が昭和47年に大富館跡に来訪され、その筆により記念碑「美濃国土岐源氏発祥地」が建てられた。
stv 現在、関東地方の土岐姓の方々百余名で「土岐会」を結成して活躍しておられる。
この沼田土岐氏の分れの子孫が「西田氏」と姓を改め、現在香川県観音寺市加麻良神社の神官を務めておられる。この両地区の子孫達が本年5月と8月に土岐市を訪れる計画があり連絡が来ているのでお迎えしたい。
泉の歴史シリーズ [43] 郷土史同好会 大東義美
44.頼貞は生きている(2000H12-9 掲載)
郷土史同好会では長年にわたって、頼貞を中心に土岐氏のことを調べ次の如く報告して来た。
[河合]
河合城(頼貞の隠居城)
八幡神社
(頼遠により男山八幡宮より迎えられた。軍神)
[定林寺]
定林寺
(土岐氏の菩提寺、全国十位内の大規模寺)
土居屋敷跡(一族土居氏)
[大富]
大富城(国房屋敷跡)
大富館跡(頼貞の居城高田城の一隅)
高田明神(土岐氏の氏神現白山神社)
[久尻]
久尻城(一族久尻氏の居城)等
しかしこれ等はすべて過去の遺跡である。
今回香川県観音寺市加麻良神社宮司西田準一氏土岐氏の子孫として、一族と共に8月19日バスにて来訪され、白山神社、妻木八幡神社、崇禅寺等を訪ねられた。
西田氏は美濃国西田庄(本巣郡根尾村あたり)に居住していた土岐氏の子孫と伝えられ、今回祖先の地訪問となったのである。
去る5月には、群馬県沼田城主土岐氏の子孫であり、現在東京在住の土岐実光氏が一族「土岐会」の方々と共に来訪された。大富館跡には実光氏の父土岐章氏の筆になる「美濃源氏発祥地」の碑が建てられている。
又妻木町には土岐氏の子孫である日東家があり、今回は大富水野孝太郎家にあった土岐氏の系図により、その水野一族が土岐氏の子孫であることが認定された。
尚大富延命寺には戦火を免れて定林寺観音堂にまつられていた土岐頼貞の位牌がうつされてまつられている。
平成7年、郷土史同好会で土岐氏の一族である明智光秀の「明智熈子を訪ねて」の本を3000冊出版したところ、またたく間に売り切れ、現在も処々から問合せがある。その子が夫光秀につくした貞節が今日の世情からか大きく取り上げられ「明智熈子を訪ねて」をもとにして、岐阜県が古田織部、円空花子につづく第4冊目の漫画本の中に計画して来年2月の出版するとのこと、まことに喜ばしいことである。かくして郷土の土岐氏が大きくクローズアップされてきた。
「歴史は甦る」と言われる。郷土の偉人「土岐頼貞」が過去ばかりでなく現在にも大きく生きていることを示している。我々が今日あるのは祖先の賜であることを今一再認識してみたい。
泉の歴史シリーズ [44] 郷土史同好会 田中鈴夫
45.定林寺を忍びて(2000H12-12 掲載)
◎定林寺雲版(うんぱん)
今は地名にのみ残る
定林寺は、禅宗寺院として250余年にわたり初代美濃守護土岐頼貞の菩提寺として、現定林寺の地にありました。
永祿(1558-1569)はじめの兵火で焼亡し、廃寺となり、往時をしのぶには、土地にのこる地名と、

歴代住持の定林寺入山を祝う漢詩(五山文学)などでした。ところが先年、飯田の開善寺定林寺の雲版が保存されていることを教えられ、同好会で開善寺を訪ねました。
雲版は径55.2センチの大きさで銅の鋳造です。表面には「濃州定林寺 永丙申(23年1416)六月一日」と刻まれています。寺での使用で
撞座はすり減って、この法器が、ありし日の定林寺境内の僧たちに食事の時など告げていた頃をしのばせます。
この雲版が定林寺から開善寺に移動したにせよ現在まで大切に保存されてきたことは幸いでした。
◎開善寺三門(
山門)
定林寺雲版を所蔵する
開善寺(飯田市上川路)は、定林寺創建(1300年代の初め頃)と同時期に、頼貞も与力して開基された禅宗寺院です。開山の大鑑禅師が病の時、頼貞が孫子を伴い見舞いし古銅の香炉を与えられるなど縁の深い寺です。

開善寺は何回も焼失していますが、現在の三門だけが創建当時のもので、屋根など上層部は改造されていますが、「三間三戸楼門形式切妻造」桁行3間、梁間2間で、柱はすべて円柱です。禅宗様のすばらしい三門です。
この三門が、今の定林寺の大門の地にあり、背景には北の少室峰、境内には曹源川が流れ、普照庵(開山塔)一滴亭 美濃国の利生塔が建ち並び、朝夕、雲版の音がひびいている。(水野輝夫氏 写真撮影)
泉の歴史シリーズ [45] 郷土史同好会 鷲津利行
46.明智
煕子漫画本出版
(2001H13-3 掲載) 歴史上の人物の評価功罪が大きくかわって来た。江戸時代、明治、大正、昭和(終戦まで)逆臣として取り扱われて来た明智光秀が見直され、その妻熙子が大きくクローズアップされて来た。
現在岐阜県では子供達の教材用として、又県民の読物として県下の過去の偉人達の生きざまをマンガ本として、全県下の小中学校、高等学校、図書館および一般希望者に配布する。
平成9年度は古田織部(古陶器織部焼の創始者)平成10年度は円空(流浪の仏像彫刻僧)、平成11年度は花子(明治初期の女優で彫刻家ロダンのモデルになった女性)が発行された。平成12年度は「戦国美濃の群像」のテーマで3月15日に出版される。その内容は織田信長と濃姫、明智光秀と煕子、森蘭丸兄弟と母妙向尼である。
この漫画本製作に当り平成12年8月に企画会議、12月には校正会議が東京都内麹町会館で開催された。岐阜県文化振興課が主催で、可児市、明智町、美山町、兼山町の役場の担当職員が出席され、土岐市だけは市役所の関係者でなく郷土史同好会の代表として私が参加した。外には県下の歴史上の人物の資料提供者として郷土史家丸山幸太郎氏(池田町)横山住雄氏(各務原市)森省三氏(羽島市)及び著作者側として里中満智子先生外3名が出席された。
その席上で明智煕子に関しては平成7年に私たち郷土史同好会が出版した「明智熙子を訪ねて」の冊子がコピーして県の方から会員に配られこれを中心にして協議をすすめられた。これによりほかは市役所役場関係者ばかりなのに私のみが一般から呼ばれたことがわかった。
想えば平成5年、大津市西教寺における明智子をうたった松尾芭蕉の「月さびよ明智が妻の話せん」の句碑の建立に参加したことが契機となり北陸路をたずね、平成7年「明智煕子を訪ねて」を出版した。この小冊子を岐阜県がとり上げてくれて今日の漫画本の出版になったのである。
土岐市に生れ、明智光秀に嫁し、戦国の雄と苦難を共にした煕子の婦徳が教育の資料とされることは土岐市の大きな誇りであり、同時に我々郷土史同好会のささやかな努力が実を結んだことに喜びを感じる。
この郷土の誇りができるだけ多くの市民の方々に読んで頂くことを期待するものである。
泉の歴史シリーズ [46] 郷土史同好会 水野輝夫
47.高田明神と白山神社(2001H13-6 掲載)
「白山神社はその昔 高田明神といわれ、約400年前 武田の家臣に焼かれた」について当時は通路のなかった白山神社の地にどうして武田軍が入り焼いたか、そして主税町の土岐川に近いところに「白山神社の土地」があることについて疑問をもっていたが、これを解明してみたい。
平安時代の頃から旧土岐郡一帯を高田郷と称していた。後に高田郷の内 泉町を中心とした農地は皇室直轄の農地になり、「高田
勅旨田」と名付けられ、皇室に収穫米を献納していた。高田勅旨田は大富、定林寺、河合、久尻、山之内のあたりであった。そして延長5年(927)に作成された美濃国神名帳に「従五位高田明神」の名称が記載されている。この高田明神が白山神社の位置にあったと推測されていた。
明治13年(1881)頃大富村の庄屋であった今井柳右衛門の作成の「大富村略記」によれば、明治6年迄使用されていた200数十の旧小字名の中に「明神前」の地名が記されており、その北側に隣接して「日神子神社」があった。又旧「明神前」の東の地域に約1800坪の白山神社領が現在もあり、この地付近を脇街道が通っておったのでこの地に高田明神があったことが想像される。
又、当時の大富村地区全体の位置関係から、小字「伍所」(旧名御所)に建っていた土岐氏の居城大富館の鬼門(うしとら:北東)の方角に瑞雲山定林寺が創建されており病門(ひつじさる:南西)の方角に高田明神が祀られていたとも考えられる。
永禄の終りから天正の始めの頃東濃一帯は、甲斐の武田軍と尾張の織田軍との争いの接点となり東濃地方の神社仏閣の30数か所が両軍により放火焼失してしまった。大富の高田明神も定林寺と共に武田軍の武将秋山信友(岩村城主 女城主の夫で有名)の命により家來の仁木藤十郎により放火され炎上してしまった。
その時大富の村人は火災の中から身を挺して半焼しかけていた11面観音を持ち出して祀りおき、約120年後の貞亨3年(1686)に白山神社が現在地に建立されるに当り合祀したと考えられる。その後11面観音は2回にわたり脚座、向背が修理されている。明治初年の神仏分離令の時にも神殿奥深く祕祀されて今日に至っている。
かくの如く歴史をたどってみる時、疑問が解かれ、益々
白山神社の淵源の深さと崇高さがしみじみと感じさせられる。
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泉の歴史シリーズ [47] 郷土史同好会 田中鈴夫
48.大富館跡 御所の由来と地積(2001H13-9 掲載)
大富館跡の小字名「御所」(現伍所)に関わる記録として次の様な文面が残されている。
文和2年(1353)7月に後光厳天皇が皇室内に内紛が有り、急拠美濃国揖斐郡小島に行幸されることとなった。
この時 土岐頼貞の孫の3代美濃守護 土岐頼康が急いで天皇に仮の
行宮を建て、この建物に天皇が住まわれた。しかし、2ヶ月後の9月には揖斐郡小島の里を離れ帰られることになった。この時の詳細が天皇の従者関白二条良基卿によって「小島のすさみ」の題目で日記として書き残された。
一方、土岐家聞書には揖斐郡小島の天皇の住まわれた建物を土岐郡へ移築したと書き残され、土岐頼貞公の法名が「定林寺殿頼貞」と記されている。また、建物の詳細についてもこと細かに記載されている。
以上の古文章から天皇の仮御所を大富館に移築し「御所」の小字名が名付けられたのではと推測されます。土岐頼貞他界の14年後の事であった。明治6年(1873)大富小字名改正の折「御所」が「伍所」と改名さ現在に至った。
昭和32年(1957)の大富区田中静夫氏の調査によれば大富館跡の小字名「伍所」の地積は宅地、田畑合計2町8反1畝20歩(外に鉄道敷地有り)と記載。伍所は東西80間(144m)南北140間(250m)にわたる。伍所の地域は回りをと堤防で取り囲まれ、その内には池の跡と思われる場所が残っていたと云う。
伍所の北の境には巾1間乃至2間(1.8m~3.6m)で長さ60間(108m)にわたって壕の跡と伝えられる水田とこれに接し、巾7間(12.6m)長さ14間(25m)ばかりの堤防が有ったが昔の大富館の様子を知ることは難しいとの事。
明治35年(1902)の鉄道布設にあたり館跡の土砂を取り運び、その跡地を水田に開墾したと伝えられている。
また、「大富村略記」には明治6年(1873)使用されていた大富地区旧小字名によれば、館跡地の正面には「御門」が有り、「先祖」も祀られていた。東側には横枕山神宮寺が存在していて、その南側には大日如来が有ったとされ、館の南正面には「堂の前」「薬師前」の地名が残され、南西には「日神子」「明神様」も建っていた。
泉の歴史シリーズ [48] 郷土史同好会 水野輝夫
49.「泉」の語源 (2001H13-12 掲載)
私達の郷土の泉町が「泉」と名付けられるようになったのは明治22年(1889)7月の市町村制実施の時からである。
当時、定林寺村、大富村、久尻村が合併して「泉村」が誕生した。定林寺、大富、久尻は大字名としその名を残した。
しかし、3地区の合併について種々の問題が有り何かと困難で有ったと云う。また新しい村名についても当初は適当な名称が見当ら無かったと伝えられている。
初代村長についても地元からの選出が難しく大湫(瑞浪市)から保々喜重郎氏に来て頂き就任された。
河合は昭和29年4月の町村合併促進法により瑞浪市が発足する時に明世村より分離して泉町に合併した。
泉村と名付けられた時の「泉」の語源についての明確な資料は何も残されていないようです。「泉」の名称の由来について泉村が発足した明治中期の時代背景からその語源を推測してみます。
大富の白山神社は明治以前神仏混合であり「玉林山竜泉寺」と称する寺院が併合していたが明治初期の神仏分離により廃寺となった。
久尻の津島神社(現文化会館)には「泉寿院」と称する寺院が併合していたが同じく明治初期に廃寺となった。
定林寺にお寺が建っていた頃、定林寺第11世僧侶、方心円禅師(南北朝、室町時代)が書き残された文献の中に「山上菊泉旦甘、袞々流芳幾千歳」とある。これは「定林寺の裏山に有る[菊泉]と呼ぶ泉は甘味で清らか真水がこんこんと湧き出ていて幾千年も絶ゆることは無かった」との意味に解釈されます。
大富、久尻では竜泉寺、泉寿院が廃寺となったが、泉村が発足した頃、まだ檀家の方々も居られたことと考えられ、各寺院に愛着や思い出もあったであろう。
定林寺の「菊泉」は明治の頃すでに無かったであろうが伝承は部落の人達によって語りつがれていたと思われます。
定林寺、大富、久尻の3地区とも「泉」の文字が共通していて、皆それぞれ寺院に関係のある名称であったことが「泉村」の村名が生れて来た要因であったと推測されます。大正4年(1915)4月、泉村が泉町となり現在に至っています。泉町初代町長には高橋正夫(定林寺)が就任された。
泉の歴史シリーズ [49] 郷土史同好会 水野輝夫
50.泉町の古墳 (2002H14-3 掲載)
太古の時代に造られた古墳は土岐市内全体で56基有ると記録され、その内泉町には42基が確認されています。泉町の古墳は他地区と比較して極めて多い数です。泉町は太古から自然の恩恵を受け住みごこちが良かったと考えられます。
泉町で古墳の存在が確認出来る数は23-4基程で、その殆どが破損若しくは古墳跡が認められる程度です。過去に発掘調査等の記録が残されている古墳は4基だけです。残る14-5基の古墳は住宅等になり伝承として伝えられているが古墳跡も残されていない。泉町の古墳で造成当時の原形を維持している古墳は乙塚古墳
stv、段尻巻古墳
stv、炭焼古墳
map の3基のみです。これ等の古墳は大変に大きな石材を使用しその石工技術も去ることながら千四、五百年の風雪に耐え太古の郷土のまほろばを私達に語りかけているかのようです。
しかし、泉地区の古墳の成立年代については不明ですが僅かな発掘調査等から4世紀末期頃から7世紀後半頃迄の間であろうと推測されます。
数ヶ所の古墳の周辺には
矢鏃も出土していて争いもあったのであろう。
中央高速道路建設の時 定林寺西洞で古墳全体が土砂で埋っていて、ほぼ完全な状態で発掘された古墳の内部からさびた鉄剣、
土師器の壺、須恵器の
平瓶、さびた鉄釘が数本出土され保存されている。須恵器は7世紀初期頃から生産が始められているから比較的新らしく造成された古墳だと考えられますがこの古墳も取り壊されてしまった。
泉小学校敷地内に有った三輪古墳は泉町最大級の古墳だと伝えられ、明治42年の泉小学校建設当時、古墳の石が余りにも大きく壊してそのまま埋めてしまったと云う。また、鉄剣も数本出土したと伝えられている。
三輪古墳は日本の国造りの神話に出て来る奈良県の霊山
三輪山とゆかりが有るとも伝えられ壊されてしまった事は返す返すも残念であった。
久尻の乙塚古墳は日本書紀に記載されている景行天皇の
后となられ久々利宮(可児市)に住んだとされる
八坂入姫命の弟姫の墓であったとの説も有り、乙塚古墳の近くには乙塚寺と称するお寺も建っていたと云う。
私達の郷土ははるかに遠い古墳時代から自然の恵を受けながら今日迄絶ゆること無く激動の時代も乗り越えながら繁栄し悠久の時が流れて来ているのだろう。
泉の歴史シリーズ [50] 郷土史同好会 水野輝夫
51.定林寺開祖 無学祖元と北条時宗(2002H14-6 掲載)
平成13年度NHK大河ドラマは北条時宗であり、このドラマのクライマックスは第2次蒙古来襲で、世に云う「
弘安の役」であり弘安4年(1281)初夏に蒙古の大軍が博多に来襲して来た。
この時、蒙古軍はすでに火薬玉を所持していたし、軍船も日本軍の船より10倍位大きかったと云う。また、蒙古軍は15万とも20万とも伝えられる大軍であった。
この蒙古来襲に対応した人物が鎌倉幕府第8代執権北条時宗であった。しかし、戦力に格段の差が有る事が解っているものの、さすがの時宗も苦悩したと云う。
この時、宋国(中国)より2年前に呼び寄せた名僧
無学祖元が、時宗に対し「蒙古軍に対し決してひるむことなく対処せよ」と喝を入れた。
無学祖元はかって中国のお寺に在住の時蒙古兵に襲われたが、蒙古兵を一喝して追払ってしまった経験から時宗をふるい立たせたのであろう。
博多沖で始まった合戦は日本軍に全く不利であったが、8月1日未明に九州一帯に台風が吹き荒れ、海上の軍船内に待機していた蒙古軍は船もろとも壊滅してしまった。
この台風を「神風」と呼ぶようになり、日本軍にとって幸運であった。北条時宗はほっと胸をなでおろしたことであろう。
蒙古来襲のあった翌年弘安5年(1282)に無学祖元の要望で蒙古軍、日本軍の戦死者供養の為に北条時宗により、無学祖元開祖で鎌倉に
瑞鹿山円覚寺が創建された。
この円覚寺舎利殿には無学祖元の木像も納められた。この頃であろう初代美濃守護土岐頼貞の母
覚曇は無学祖元の法弟となり、まだ少年であった土岐頼貞を連れて無学祖元に面会している。
無学禅師は頼貞少年の頭を撫で「この少年は将来大器になるであろう」と、その将来を期待され最大の賛辞を贈られた。やがて、頼貞が成人した後、美濃国下河井村(現定林寺)に禅宗の大寺院瑞雲山定林寺を創建し、すでに他界していた無学祖元を開祖とした。
土岐頼貞の父光定の33回忌法要の折、定林寺内に普照庵(現正庵)を建て、父光定、開祖無学祖元、第1祖
高峯顯日霊骨も納め、更に無学祖元の木像も奉納し、盛大に法要が営まれた。
しかし、戦国時代に武田軍によって定林寺は放火され跡形も無くなった。現在では観音堂が残されているのみです。
泉の歴史シリーズ [51] 郷土史同好会 水野輝夫
52.定林寺の上人塚 (2002H14-9 掲載)
現在定林寺の共同墓地内に上人塚が建っている。高さが70cm程の自然石の表に「上人塚」と大きな文字が彫られ、その左下には「村中」と小さく刻まれている。しかし、上人様が誰であったかは、記録が残されていない。
上人塚の本来の場所は定林寺字段691番地に建っていたが、昭和初期に共同墓地に移築されたと云う。元の上人塚は面積凡そ3-4坪でこんもりとした土盛りが、1.5m程の高さがあり、その下面から10段位のなだらかな石段が有った。その頂上に上人塚が祀られていた。
「上人」とは仏道を極め優れた僧の称号とされている。

かつての定林寺の開祖無学祖元(仏光国師)は鎌倉幕府第8代執権北条時宗が日本に禅宗を広める為、宋(中国)より招いた名僧で、弘安2年(1279)9月に来日されたが、他界されて約30年後に定林寺は開山されている。
無学祖元には数々の逸話が残されている。
蒙古来襲の国難に苦悩する北条時宗に喝を入れ奮い立たせた。結果は台風が吹き荒れ蒙古軍は壊滅し、日本軍にも多くの戦死者が出た。
其の翌年、無学祖元の要望で両軍戦死者の供養の為、鎌倉に円覚寺が創建され、彼が開祖になっている。
同じ頃、日本人僧侶の高峰顕日と面会され、高峰顕日(仏国々師)は無学祖元の最初の法弟となった。両者はその後、定林寺の開祖、第1祖となっ僧侶でもある。
この頃であろう、土岐頼貞の母
覚曇も無学祖元の法弟となり、吾が子頼貞を連れて祖元と面会した時、頼貞少年の将来に大いに期待したと云う。
土岐頼貞が成人した後 下河井村(現定林寺)に瑞雲山定林寺を創建し、開祖は無学祖元とした。その後、定林寺内に普照庵を建て、土岐頼貞は父光定の33回忌法要を営むについて父光定、開祖無学祖元、第1祖高峰顕日の霊骨を納め、併無学祖元の木像も奉納した。
戦国時代になり定林寺は武田軍が放火、焼失してしまった後、村人によって小さな観音堂が
一宇建てられ、11面観音菩薩も納められた。同じ頃であろう定林寺開祖無学祖元を偲んで村人の総意で上人塚が建てられたものであろう。
泉の歴史シリーズ [52] 郷土史同好会 水野輝夫
53.定林寺の十一面観音菩薩(2002H14-12 掲載)
十一面観音菩薩とは観音様本体の顔と頭の上に十面の小さな顔が外側を向いておられ全部で十一面の観音様が一体となっておられます。
十一面の観音様はそれぞれお役目を持って居られます。それは世の人々に対しての慈悲、愛情、叱咤、激励等であります。
観音様のそれぞれのお顔が参拝に来られた皆様を優しくねぎらい、心こめて励まし、きつく叱り付け、悩み苦しみから解き放したり、やわらげたりしておられるとされています。
定林寺の御本尊は十一面観音様で、平成11年に新しく観音堂が改築され、正面に祀られています。観音堂に残されている古い棟札等によれば文禄2年(1592)に小さなお堂が建てられ、十一面観音様だけが奉納されたが、長い年月の風雨でお堂の痛みがひどくなり、84年後の延宝5年(1677)6月21日にお堂が改築されました。この時観音堂は立派に創建され、十一面観音様の外に聖観音菩薩の外にもう一体の仏像が奉納されましたが、どんな仏像かは不明ですが「丹羽金右衛門の娘 心願有るを持って寄進」延宝5年6月21日とあります。
この時 丹羽金右衛門の娘さんが大病か何等かの悩みがあった為に十一面観音様に願を掛け懸命にお参りした結果、その御利益で救われ御礼として新しく佛像を寄進されたと推測されます。
同時に古いお堂の雨もりの為であろうか十一面観音様の台座裏の痛みがひどくなって、修理された年月や大仏師の名前を書き残しています。
観音堂は323年後、平成11年に再度改築され、その正面に納められた十一面観音様は自らの足元である台座裏は今日迄何の支障も無く遠い昔からと同じ様におだやかに座っておられます。
定林寺の十一面観音様は現代の人々にも「足元のいかなる痛みも苦しみも治まりますよ」と優しい表情で語りかけておられるかのようです。かって丹羽金右衛門の娘さんの心願をお聞き下さったように、延宝5年6月のこの時から定林寺観音様 九万九千日夜祭りが始められたのでありましょう。旧暦の6月は新暦の7月に当ります。
また大富の白山神社の神殿の奥の部屋に古い十一面観音様が残されています。何時製作されたかは不明ですが、頭上の十面の観音様が皆無くなり、本体だけの観音様で2度修理されています。
泉の歴史シリーズ [53] 郷土史同好会 水野輝夫
54.久尻村加藤景延唐津に赴く(2003H15-3 掲載)
桃山時代に久尻村元屋敷の唐津式登り窯で各種のオリベ焼が生産された。
加藤景延が唐津に赴き朝鮮陶工が築炉した登り窯を習得した後、美濃で初めての登り窯を久尻村に築炉したが、景延が唐津へ何時訪れたかについては明確で無い。
慶長2年(1597)2月28日の
古田織部の茶会の記録に「セト茶碗ヒツミ候、ヘウケモノ也」と有り、美濃で造られた
沓型茶碗が使用された。
この時すでに元屋敷に唐津式登り窯が築炉されていたと考えられる。
唐津地区にも景延が訪れ登り窯の研究をした記録も残されている。
郷土に残る「唐津窯取立来由書」によれば唐津浪人 森善右衛門が清安寺を訪れ、唐津陶業の説明をした後 景延を唐津へ案内したとされている。
唐津では文禄元年(1592)豊臣秀吉による第1回目の朝鮮出兵が挙行された後 数名の朝鮮陶工達が来日した。
文禄2年(1593)秀吉の命で家臣の寺沢広高が尾張より唐津の旧波多氏領を引き継ぎ唐津藩主に着任した。寺沢広高の妻は妻木城主妻木頼忠の娘であった。このことから加藤景延が唐津を訪れた事は妻木城主の働きかけが有ったのではと推測されている。
唐津浪 人森善右衛門が波多氏の旧領へ景延を案内したのであろうこの地域での窯跡から久尻元屋敷の出土品と同じ図案の陶片が多数出土している。 文禄4年(1595)頃帰化人陶工達により唐津地区、萩の里(広島)伊万里等で開窯され、製陶が始められている。
慶長2年(1597)には第2回目の朝鮮出兵が行われた。「
慶長の役」で、その後多数の朝鮮陶工達が来日して来た。この後朝鮮では窯業が廃絶してしまったという。
美濃に帰って来た景延が唐津で登り窯の築炉技術と酸化炎焼成の技法を習得したことが各種の優れた織部陶が大量に生産された要因となった。
だが、残念ながら久尻元屋敷の登り窯での生産は長くは続かなかった。
慶長20年(1615)6月に茶人 古田織部は主君徳川家康の機嫌を損ねる事件が起きた為3人の子供も含め切腹を命じられてしまった。織部の焼物の使用も禁止になったであろう。
景延は翌元和2年(1616)3月には遠州志登呂村で開窯した記録が残されている。
久尻村近辺で弟子達により、オリベ焼はその後も生産されていった。
泉の歴史シリーズ [53] 郷土史同好会 水野輝夫